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七月も半ばだというのに低く垂れ込めた雲が空を覆っている。天気予報は“梅雨明けは平年より遅れるでしょう”と,今年何度目かのアナウンスを繰り返して いた。微かに顔を覗かせる夏の気配は,晴れやかな女性の二の腕と,行くあてのないサラリーマンのハンカチにわずかにぶら下がっているだけだ。長居を続ける梅雨の衣をまとった昼過ぎの雑踏は,人いきれを加えて,満員電車に乗り合わせた代議士のように鬱とおしかった。
ゲームセンターからばら巻かれた薄っぺらなリズムが店先を行き来し,車道にまで溢れた人波は車の行く手を遮る。夏休みを繰り上げて地方からやってきた学生たちは,ローラー作戦でしらみ潰しに街中をかき回していく。
ぼくは円山町の外れのライブハウスを出ると,ジャケットを脱ぎ,肩に掛けた。ネクタイも緩めたが,それで一息つけたのは,ほんの数メートルだった。

「ちょっと,君。待ってくれよ」
振り返ると,人混みをかき分けながら男が走ってくるのが見えた。ぼくに向けて挨拶するかのように小さく手を振った。親しげな笑顔だが,ずる賢そうな目元が 眼鏡越しに覗く。くたびれた吊しのジャケット,汚れなのか模様なのか区別がつかないほどくすんだ色のネクタイ,制服で資質を隠すことさえ諦めた姿は不健康に痩せ,顔色は悪かった。四〇歳ぐらいだろうか。それにしては,年相応の深みが感じられない。
ぼくが立ち止まると,男はトラウザーズのポケットから皺くちゃになったハンカチを取り出し,額を拭う。
「いやぁ,まったく暑いねぇ。こう暑いと,人の後をつけるのも一苦労だ。ベル・エキセントリックにいたの気づかなかった? 取材でね。ぼくは越崎,フリーランスの物書きさ。今日のライブの話,聞かせてくれないかなぁ。ちょっとでいいんだ。手間はとらせないよ。とにかく喫茶店にでも入って……こう暑くちゃ話にならない」

その喫茶店は,ちょっとしたプール・バァほどの広さだった。右手奥に向かってカウンターが伸び,その向かいの一段下がったフロアーにテーブルが並ぶ。カ ウンターの内側に据え付けられた棚には,ボーンチャイナが整然と一列隊を組む。表通りに面して天井まである大きなガラス窓は,曇り空からありったけの陽光を採ろうと孤軍奮闘していた。BGMはメンデルスゾーンの〈スコットランド〉。縁側で昔話をつらつら語り合うには手頃な曲だ。
フランス語が読めないばかりに〈アンチ・オイディプス〉を英訳で買ってしまったのだろう。髪を肩まで伸ばし黒縁の眼鏡をかけた男が,カウンターで分厚いその本をめくっていた。窓際では,アロハシャツを着た小太りの学生を囲んで五,六人がテーブル二卓を占領し,テレビのコメディアンの台詞をそのまま喚いては笑い合う。それは,国道沿いの潰れたボーリング場跡のように見慣れた光景だった。
ぼくと越崎は,窓際の学生から出来るだけ離れた場所に席をとった。控え目だけが唯一の取り柄のウエイトレスは黙ってテーブルに水を置く。ぼくはポットサービスの紅茶を,越崎はアイスコーヒーを頼んだ。
小体なテーブル越しに差し出された名刺には,大手出版社の週刊誌のロゴマークが擦り込まれている。どこがフリーランスなのだろう。怪訝な様子に気がつい たのか,すかさず越崎は「あぁ,それね。そこの仕事のとき使ったもので,ぼくは社員じゃないんだ。悪いね,持ち合わせがなくて」と,早口でまくしたてた。

外はあれほど蒸すというのに,上着を脱がずに長袖のワイシャツさえ着ている。冬になったら反対に,セーターやベストの類をまとうことなく取材に出かけるに違いない。そういった原則には至って恭順な古いタイプの記者らしい。冷めた汗が乾ききらぬまま痩せた体躯を浮き上がらせている。
「で,用件は?」
深く椅子に掛け直し,ぼくは興味なさそうに頸を鳴らした。
「いやぁ,ね。スコラ・ジプシーが人騒がせをやるつもりだってことぐらい知ってるさ。その打ち合わせか何かしてたんだ,さっき。そうだろう? 聞かせてくれないかなぁ,そこらへんの話を」
越崎は神経質に瞬きを繰り返しながら,無理に笑顔を作って見せた。しかし,ひん曲げた口元は緊張で強張っている。
「言ってることの意味が分からない」
「隠さなくてもいいじゃない。黙ってたって今日,明日には,判っちゃうんだ」
「今どき,新人バンドのライブを取材しても,記事にはならないよ」
「知らないと言うのかい,“TG”の話だよ」
「“TG”?」
ウエイトレスが越崎にアイスコーヒーを運んできた。さっとコースターごと手元に引き寄せ,ガムシロップをたっぷり入れた。ストローを使わずに一息で半分ほど飲み干した。ペーパータオルで濡れた指先を拭うと,鼻先を冷めた空気がかすめた。
「そう,“TG”。写真週刊誌も取材で何人か動いてるって話だ。……それだけで,もう成功じゃないか」
そこまで言うと,越崎の顔から笑みが消えた。「いい加減,ばかな真似よしたらどうだ。今度は何をやらかそうっていうんだ。ぼくは煽ろうって奴とは違う。前回,あんな形で揉み消されたこと忘れたわけじゃないだろう。村山くんの絡みで来るライターもいるらしい。ノンフィクションブームに乗って,幻のバンド,ア ブセント・キングの真実,なんてタイトルで,企画が進んでると言ってた奴もいたな」
TG? 何の略だろう。差し当たって思いつくのはスロッピング・グリッスルしかない。スコラ・ジプシーがスロッピング・グリッスルのカバーを演奏るとで もいうのだろうか? ぼくは思わず失笑してしまった。そんなことはありえない。たとえ演奏ったとしても,写真週刊誌の記事になるような事件からは遥か彼方のできごとだ。あの整然と管理されたライブハウスで,一つの企みが社会的にインパクトを与えることなど起こり得ない。
「いきなり呼び止めて訳わからないこと言って,PTAみたいだな。いくらジャーゴン雑誌全盛時代だからって,話は前提から始めるものだ」
「君だって,彼らに危険な真似させたくないだろう」
「だから,何のことか分からないって言っているんだ」
「これを見ろ」
越崎は年代もののショルダーバッグからカセットケースを取り出した。すかさずテーブル越しに放る。ぼくの手許で嫌な音がした。白黒のコピーで作ったジャケット。そこには四人の若者が映っている。男が三人,もう一人は亜子だった。
「カセットケースだ」
「スコラ・ジプシーが覆面バンドとして出したものさ。一か月前にね。見覚えあるだろう?」
「女の子が一人いる」
「とぼけるなよ。アブセント・キングってバンドの写真だろう。撮影されたのは二年前一九八二年の秋,バンドはその年の暮に解散した。ライブハウスでは,そこそこ名の知れたバンドだったって話だ」
「詳しいね。ぼくが教えることを少しは残しておいてよ」
「ウォークマン持ってないんだったら貸してやるぜ。面白いものが入ってる。あとで聞くといい。ぼくはダビングしたから必要ない」
ぼくはカセットケースをポケットに突っ込んだ。遅れてやってきた紅茶をカップに注ぐ。
「たぶん,ぼくには全然見当違いの話だ。何を言ってるのか分からない。ライブハウスに戻って,理彦に尋ねたほうが賢明だ。さっきの話だって内輪な話さ」
「おかしいじゃないか,リハーサル前の忙しい時間に,友達と世間話なんてさ」
前のめりに顔を突き出し,ぼくは皮肉っぽく口を歪めた。
「その通り,おかしい奴なんだ。単純なことでも複雑に見せなくてはという強迫観念をもっている。だから,奴の行動を理詰めで追いかけても無駄だ。何か探っているんだったら,そこら辺の感覚だけは押さえておかないと,わけわからないことになる。ぼくに聞いたって無駄だ。それに,これから用事があるんだ。あ なたのお役には立てないな」
「お供してもいいぜ」
そう言うと,彼はグラスの残り半分を喉に流し込んだ。
「あなたには関係のないことだ。女性を迎えに行く。もしかしたらスコラ・ジプシー絡みかもしれない。ついてくるかい?」
「本当に知らないのか?」
「逆に教えてほしいくらいだ」
「……まぁ,いいか。本当に知らないんだったら。“テレビ・ゲーム”の略。ったく,知ってんだろう,こんなこと」
「ゲームセンターにある?」
彼はぼくの答えに驚いた様子だった。急に緊張感が薄れ,浅黒い顔が曇った。
「ほんと,知らないんだ,へぇ……おっと」
突然,越崎の心臓が鳩のしゃっくりのように鳴った。慌てて右手を袷の内側に忍び込ませると,ポケットベルのスウィッチを切った。「そのまま待っててくれよ」そう言うと,そのまま入り口近くの電話器まで駆けていった。

四年前,東京近郊と呼ぶには,ラッシュアワーの始発駅で座席を狙うご婦人ほどの衒いが必要な場所にある大学で,ぼくは理彦に会った。始まったばかりの八〇年代が,これからの一〇年間で何を決着させようとしているのか誰にも気づかせぬまま,それでも日々どこかで誰かが密かな計画を囁き合っていた頃のことだ。
あの頃,イギリスから発信されたレコードは,それこそ一枚一枚が,現実に抗うことのなくもう一つの世界を提示していた。パンク・ニューウェイヴ以降,そ れまでのロックが抱えていた意図は様変りしたのだ。ある時期,オルタネイティブ・ロックと呼ばれた音楽は,まるで公務員がおもちゃ箱からシュルレアリストのオブジェを峻別しているかのように,別の尺度で世界に向き合っていた。
当時,理彦はすでにスコラ・ジプシーを始動させていた筈だ。しかし,世のなかの成り立ちに親しげに伺いをたてながら,出くわした現実と旨く折り合いをつ けていた。それは特殊なことではなかった。この国でミュージシャンを目指すという行為自体が,ある種のエクスキューズを必要とするのかも知れない。

それは,大学があった町にただ一軒の輸入レコード屋で,公式ライブ盤と勘違いしてポリスのブートレッグを買ってしまった喬司が「こんな酷い録音売りやがって。ふざけるなよ」と,店に押しかけたときのことだ。
レコード一枚を買うために,あるだけの雑誌から情報を収集する割に,衝動的にレコードを買ってしまい後悔することが多い喬司だったが,初めてブートレッグを聴いたこ奴には録音の酷さが許せなかったのだ。
「音が悪いなら悪いってちゃんと書いておけよな」
その日,駅前で会ったぼくに向かって,喬司は本気で怒っていた。連れ立って店に入ると,いきなり口を尖らせ店員めがけてまくしたてた。
喬司に説明するかわりに,ぼくに対して「ブートレッグってのは,どういうものなのか,そちらのお友だちに説明したんですか」と口元を歪めて吐き捨てたのが,その店でアルバイトをしていた理彦だった。
結局,レコードは取り替えてもらえなかったが,しばらくして喬司はこんなふうに言った。
「あの音の悪さがいいんだよな」

ここからでは鉢植えが邪魔をしてよく見えないが,越崎の電話はやっかいなことになっているらしい。ヒステリックに甲高い声の輪郭だけが聞こえてくる。
冷めた紅茶を飲むと,すぅっと目の上あたりの煩わしさが軽くなった。昼からアルコールを飲むなんて久しぶりのことだったのだ。しばらくすると,越崎が戻ってきた。
「すまない。急な取材が入ったんだ。どうせ,君も来るだろう。“TG”がどうなろうと,彼らが何を掘り起こすのかは,その目で確かめておきなよ」
座りもせずに肩越しにそう囁くと,レシートを取り上げた。
「いつでもいいから,電話くれないかな。今度のこと,まとめなきゃならないんだ。さっきの名刺のところで,連絡つくようになってるから。協力してくれたら,謝礼はずむよ」
肩でふぅっと息をすると,後ろ手で後頭部のあたりの空気をかき消すかのように手を振った。愛想のつもりなのだろう。レジで領収書を受け取り,そのまま湿った熱気が待つ渋谷の町へ彼は出て行った。

越崎がぼくの名を控えていなかったことに気がついていたが,そのことを指摘しようとは思わなかった。決して悪い人間ではないのだろう。仲間も多く,仕事に 関しても自分なりの哲学を持っているのかも知れない。しかし,努力が報われない行為というものは,いたる場所に転がっているのだ。

ぼくは,内ポケットに仕舞った鴬色の封筒を取り出した。なかには,チケットが二枚と一万円札が三枚,レポート用紙が入っており,その切れ端に汚い字で亜子の連絡先が記してあった。
チケットは黒い厚手の紙で,文字は銀色のインクで印刷してある。〈LIVE AT FIRST SIGHT〉。XTCのパロディのつもりなのだろう。まさか,だんだんと地味になりつつあるこのバンドの絶頂期になぞらえたわけではあるまい。イラストが示しているのは彼ら自身に違いない。四人の男が椅子に座って新聞を読んでいる。人型は,あちこちの印刷物から切り抜いた記事のコラージュだった。越崎の名刺と一緒にして封筒に戻した。
カップに注いだ紅茶を一口飲んだ。ぬるいオレンジエードより不味い飲み物を口に入れたのは久しぶりだった。
席を立つと,〈アンチ・オイディプス〉を読んでいた男がスポーツ新聞を広げているのが目に入った。英語も読めなかったことに気がついたのだ

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