1

 「昼間からバァで酒を飲んでいられる余裕があったなんて,想像もしてなかった」
 「今夜のギグまで六時間もあるんだ。ジントニック三杯くらいなら,すぐに抜けるさ」
 「なるほど。アルコールが入っていないと自分の演奏に自信が持てない,その程度のミュージシャンだってことか」
 「お前は知らないだろうが,スコラ・ジプシーがこの二年間で得た人気の原動力は,秀でた演奏能力とクオリティーの高い楽曲なのさ」
 「ニューウェイヴバンドに演奏能力が必要なんて話は聞いたことがない」
 理彦は吸いかけのガラムを揉み消し,ぼくに向き直って言った。
 「必要なのは,たゆまざる努力さ,努力」

 カウンターバァを併設したライブハウスだった。演奏が始まるとオール・スタンディングになるのだろう。三〇〇人ほどのキャパシティのフロアに椅子はなかった。鈍く光るライトに照らされて,今夜のライブを待ちながら静かに沈んでいく塵が見えた。
 フロアとカウンターは真鋳のパーテーションで仕切られていた。しかし,病み明けのジャコメッティよろしく貧弱なそのオブジェは,せいぜい消えかけたセンターライン程度の説得力で存在を誇示するだけだ。
 L字型をしたカウンターの奥には,巨大な水槽を模してガラスで覆われたミキサールームがあった。水槽のなかで,洗いたての白いシャツにGパン履きの女の子が器用にミキシング・コンソールを操作する。そのガラス越しに狙いをすますかのようなシルエットの男は,長髪を頸の後ろで結わえいる。そ奴は,昨夜のテレビ番組を話題に彼女の機嫌を伺う。彼女の気のない受け答えも,ここでは愛想よく聞こえる。真冬に戸外でパレードを待っているわけでもないのに,皆,口が重いのだ。

 スタッフの一人が軽いフットワークでぼくたちの傍を駆け抜ける。瞬間,その姿は一九一六年二月五日,キャバレーボルテールに登場したロシア人の姿と二重映しになる。「ハンス・リヒターの現代性とシミュラクラ」。出がけに編集部に渡してきた解説文のタイトルだ。亡命者たちが集まった今世紀初頭のチューリッヒ。 ダダが誕生した瞬間,そこにロシア人が居合わせたのは偶然だったのだろうか。資料を手繰ると,あの四人の若者の行動が社会に与えた衝撃を身近に感じた。数週間頭を悩ませていたその小文をロシア人のダンスから書き始め,一気に書き終えたのだった。

 「おい,何やってんだ!」
 入り口近く,腕組みしながら壁にもたれていた紺のTシャツ姿の中年男が,すかさず,その男を注意する。
 「シールドに引っかけるから駈けるんじゃねぇよ! 何度言ったらわかるんだ!」
 スレ違いざま,肩を触れた相手にする程度の礼儀で,その男は謝った。徹夜明けの朝,始発電車の警笛を聞くときに感じるような倦怠感と,欄干ばかりを執拗に行き来する掃除夫なみの誠実さが辺りを包んだ。

 奇妙に弛緩した騒めきが掻き消されてしまうほど空気が重かった。ジャケットのボタンを外し,シャツの裾を少し引いた。ぼくがライブハウスに足を運ばなくなって一年二か月になる。その間に何かが変わったに違いない。一年二か月は物事を変えてしまうには十分な時間だ。たいていの新人バンドはLP二枚にシングル三枚,四枚目のシングルを出すことなく,そろそろ次の仕事をどうしようかと頭を悩ませる。大枚叩いて買った輸入盤であっても,ボーナストラック入りで国内盤が発売される。ジョン・レノンが言う通り〈そんなことは誰も教えやちゃくれない〉。

 天井高く据え付けられたスピーカーからは,ジミー・クリフの〈The harder they come〉が流れていた。その日の演奏に関係なく,開演前のライブハウスではレゲエがかかることが多い。これは変わらないことの一つだ。
 ぼくには,昼間から,それもライブハウスのなかにバァを開く神経が理解できなかった。平日の昼下がり,慌ただしく行き来する長髪のローディーを横目に,酒を飲もうと考える男がいるだろうか。酒があろうがなかろうが,ここがライブハウスであることに変わりない。よろしい,そういう趣味を持った男がいるのだろう。あくまでも趣味の問題だ。しかし,最近の流行ではないらしい。その広いバァコーナーに客はぼくたちだけだ。
 カウンターの向かいに張られた鏡のなかで,自分が私を睨めつける。百万人の名なしの森がこちらを睨む。詐欺師に騙される寸前,人はこんな顔をしているのかも知れない。眼の奥で急にアルコールが頸をもたげてくる。
 「メジャーデビューするんだって。何かで読んだよ」
 ぼくは,両手でグラスを抱きしめた。
 「もう二五だぜ。デビューするにしてもギリギリさ。見る前に跳んだってわけさ」
 「跳んだのはレコード会社の方かも知れない」
 理彦は新しい煙草に火を点け,顔を顰めた。

 その年,ぼくはいくつかの理由で懐が暖かかった。
 前年,デュッセルドルフで開催された『DADA IN JAPAN』を手伝ったのが始まりだ。それ以降,何かが変わった。たぶん,ぼくは世の中の流れに乗ったのだ。来月は東京のデパートでマン・レイ展が開催される。幾つかダダ展の予定もあるという。年明けに展覧会の企画依頼が二件あった。知人の伝で,美術学校の講師の口が決まった。それまでいた大学院に比べると距離は遠くなったが,通えない距離ではない。中央線と横浜線を乗り継ぎ,八王子の外れの校舎で週四コマの講義に時間を費やす。チューリッヒ時代のダダを研究テーマとするぼくに,これ以上恵まれた条件はなかった。
 四月,五月は右往左往する同僚を横目にやり過ごした。七月に入り,ベテランピッチャーのように仕事に緩急をつけるコツを覚えた途端,時間に余裕ができた。理彦から突然の連絡が入ったのは,そんなときだった。

 「実は相談があるんだ」
 電話の向こうで理彦は,そう囁いた。その声は学生時代と全く同じだった。試験が近づくと,ノートを調達するために友人の間を駆け抜けた,あの有名な猫なで声だ。
 「あいつの相談は,テスト前だけだからな。近くの他人ってのは,そんなに頼りになるものかよ!」
 理彦は,他人の揚げ足をとっては,いつの間にか会話の中心に入り込むようなところがあった。そんな彼を心好く思っていない友人の一人は,皮肉まじりにそう言った。
 「来週の金曜日,ベル・エキセントリックで会えないかな。渋谷のライブハウスさ。知っているだろう。夜にギグがあるんだ。一時に入りだから,その前に。なかにちょっとしたカウンターバァがあるんだ。昼からやってる。詳しいことは,そこで話すよ」
 一方的に電話は切れた。理彦から連絡を受けたのは,二年振りのことだった。

 「最近原稿書いてるのか。俺,美術系の専門誌なんて読まないから,その辺の情報には疎いんだよな」
 そう言うと理彦は,恥ずかしそうに笑った。
 「署名なしの記事だって数をこなせば,小遣い程度の額になる。ライナーノーツを書くのと同じだ。今朝も映画の解説文を仕上げていたんだ。ハンス・リヒター特集だってさ。まあ,それにしても今どきダダの研究家なんて,体のいい便利屋だ」
 理彦に言うまでもなく,実際,そういうところだったのだ。一体,誰が好き好んでこんな文章を読むんだろう? 今朝の原稿も編集者にそう言って出掛けに渡してきた。今どきハンス・リヒターなんて,まったく,何が脚光を浴びるか分からない。
 「ところで,頼みって何なんだ」ぼくは尋ねた。
 「亜子のところへ行ってくれないか。……彼女を明日のギグに連れてきてくれると助かるんだ」

 幅の狭い肩を揺らすと,ツゥートーンの格子模様のコットンシャツがふぅっと膨らんだ。相変わらず「夕食は煙草三本」などというストイックな生活をしているのかも知れない。細身の黒いGパンを履いた姿は,まるで烏が舞い降りた避雷針だ。
 「亜子?」ぼくは聞き直した。
 「そう,アブセント・キングでドラムを叩いていた亜子さ」
 「彼女は体調を崩して親許に帰ったんだろう。誰かから,そういう話を聞かされた覚えがある。京都だった筈だ。今もいるのかい?」
 ぼくは紙ナプキンで湿気に濡れたカウンターを拭った。
 「まさか,今からお前を京都まで行かせようなんて気持ない。練馬の外れにいるんだ。親戚の家で日々,天井や壁とにらめっこさ」
 理彦は,たやすく言ってのけた。こういう態度が他人には気に障るのだ。
 「体調って言っても,亜子の場合,〈こころ〉の方だから,それほど心配することはないさ。対人関係の不器用さが,社会生活に支障を来させるなんてこと,よくあるじゃないか。一年くらい前は,そりゃ酷かったって話だが,最近は調子もいいらしい」
 「それにしたって,ライブハウスに連れてきて大丈夫なのか」
 ぼくはグラスをそっと置き,手を胸の前で組んだ。レンブラントが描く油絵のように,明りが氷に集まり,カウンターの上に万華鏡の影を作る。空気が揺れると,バランスを保っていた氷が崩れ,その影が一転した。
 「出来たら,でいい。……連れてくるのが無理なら,借りてきてほしいものがあるんだ。……それに,知っているだろう。スコラ・ジプシーはニューウェイヴバンドっていったって,演奏ってるのはシンセサイザー付きロックンロールさ。エキセントリックどころか,良いも悪いもない。ファンだって素直なものさ」
 理彦は,右手でリズムをとりながらカウンターを叩き始め,それにつられて身体を煩さく前後させた。

 「そんなこと頼まれるために,昼間からマイクチェックの音をBGMに,ジントニックを飲みに来たってわけか」
 ぼくは大きくため息を吐くと,声を荒げた。パレードを誘導する機動隊なみの自制心を財布に忍ばせていたにしても,一息に流し込んだジンに容赦はない。間の抜けたBGMにつられて,思考のスピードが加速していった。
 「理由を聞かせてくれないか。彼女を今さら呼び出そうという理由。ぼくが彼女に会いに行く理由だ」
 「理由?」
 理彦はあらためて,そう尋ねられたことに驚いた様子だった。小さくつぶやいた後,ストゥールの上で前後させていた身体を止めた。腰とかかとでバランスをとりながら,ぼくに向き直った。瞬間,彼の顔がパッと晴れた。
 「明日のギグで正式にメジャーデビューを発表するんだ。取材も入ってるし,ちょっとした趣向も用意してある。明日が節目になる筈さ」
 「明日?」
 「2DAYS,ここで二日間やるのさ。メジャーデビューの発表なんだ。二日とも違うメニューで,ガラッと雰囲気を変えたギグさ。今夜はツアーの流れで行くけど,明日はちょっと凄いことになる。そのために,彼女が作った機械が必要なんだ」
 表情が緩むとともに,彼は再び身体を前後させ始めた。そのままの姿勢で,コースターごとグラスを手許に引き寄せると,三杯目のジントニックを空にした。
 「機械? 同期ものか?」
 「まあな。お前は知らないと思うけど,アブセント・キングでドラムを叩く前,亜子は半年くらい,うちのバンドにいたんだ。まだアマチュアがライブでシーケンサー使って同期もの演奏るなんて考えられなかった頃だ。
 もちろん楽器担当なんかじゃない。リズムトラックを作る役回りさ。彼女,理系だったから,その手の機材に強かったじゃないか。スタジオに4トラックのオープンリール持ち込んで,リズムから曲を固めていくんだ。使えないものが多かったけど,そうやって作って,今でも演奏っている曲もある。当然,シーケンサーを走らせて,ガイド聴きながらさ。まるでニューウェイヴバンドだろ」
 ぼくは黙っていた。亜子がスコラ・ジプシーにいたという話は初耳だった。

 「その頃,亜子が作った“機械”があるんだ。今で言うサンプリングの元祖,ディレイを改造したものなんだけど……。詳しいことは知らないが,ディレイってのは,ライン経由で入った音が遅れて出てくるんだから,どこかに音をホールドしているらしい。ってことはホールドしているところを電圧かませて引っ掛け,テープレコーダーを繋げると,今で言うサンプラーみたいなことが出来るんだ。ちょっとした発明だな。
 そいつを使って声やらノイズやらをサンプリングして作った,なかなか格好いいフレーズがあったんだ。それを出口の奴がえらく気に入って,すぐ曲にした。タイトルは,彼女が作った機械の名前から取って〈パンドラボックス〉」
 「〈パンドラボックス〉?」
 「そう,いかにも亜子らしい命名だろう。曲も確かに良かったんだけど……。ただし,機械は誤作動が多くて,亜子にしか動かせなかった。だから,ギグで 〈パンドラボックス〉を演奏るときは,彼女に操作を任せるしかなかった。アブセント・キングに亜子が加入したのは,それからすぐのことだ。だから,実際にギグで〈パンドラボックス〉を演奏ったのは二・三回だけさ。
 明日,出口がその〈パンドラボックス〉を演奏ろうって言うのさ。まったく,急にだから,参るよ。あの頃は早すぎて受け入れられなかったが,今なら通用するってさ。ほら,このところのZTTレーベル,トレバー・ホーン流行で,サンプリングだらけだろう。今なら,ちょっとはインパクトあるってのさ」

 漂うガラムの匂いが,ライブハウスを理彦の場所に変える。サーファーでもないのに,理彦は昔からガラムばかり喫っていた。彼が上がり込んだ部屋は,まるで香でも焚いたかのように匂った。
 ある日,ライブの打ち上げで,亜子が尋ねたことがある。
 「何でそんな煙草喫ってるの?」
 「煙草臭くならないからさ」理彦は当然のように答えた。その理由に,誰からも同意が得られなかったことは言うまでもない。
 「それで,ぼくに〈パンドラボックス〉を借りてこいって言うのか?」 ぼくは空になったグラスを端に寄せ,理彦をねめつけた。「自分で連絡すればいい。わざわざぼくが行く必要はないだろう」
 「俺だってツアーの合間に電話したさ。でも,連絡つかなくて……直接彼女のところへ行くにも,東京に戻ってきたの昨日の夜なんだぜ。で,大阪のギグの後,お前のこと思い出したのさ。頼むよ!」
 「だったらテープを回せばいいじゃないか。やっかいな機械を持ち出すなんて,今さらすることはない」
 「……それが,そうはいかないんだ」
 自分の膝の間に向けて独りごち,理彦の視線は空を彷徨った。
 「二週間前までテープはあった筈なんだ。使わなくなった素材は出口が保管していて,奴がその頃たまたま家で聞き返したらしい。それが,二週間前のミーティングの後,探したんだが見つからない。どこかへ消えてしまったのさ。誰かに盗まれたのかも知れない。どちらにせよ,今,テープは手元にないんだ…… あっ,おはようございます!」
 突然,理彦は立ち上がり,カウンターの外れへ歩み寄った。間接照明が描く幾何学模様のなかに男がいた。グレーのダブルのスーツを上品に着こなし,ていねいに撫でつけた髪に,どう凄んでも育ちの良さが出てしまう目元。年齢は三〇代後半,ぼくらより一回りは上だろう。
 「みんな揃っているかな」
 ゆっくりとした口調で男が尋ねた。
 「すぐ,見てきます!」
 理彦はステージの上手へ消えた。後に男が一人残った。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Top