4


理彦に頼まれてスコラ・ジプシーの曲に歌詞をつけたことがある。出来上がった歌詞を持って,当時彼らが練習場にしていた立川のスタジオへ顔を出したときのことだ。打ち合わせを一通り終え,受付カウンター前の古びたソファーで音数を調節していると,そこに亜子がひとりでやってきた。
「“あなたが初めて水仙を贈ってくださったのは一年前でしたね。すると,みんなが私のこと水仙女っていうのよ”」
彼女は,華奢な首筋あたりで切りそろえた髪をひと振りし,小体な顔の真ん中にぽっかり開いた黒く大きな瞳でぼくを見つめた。両手を腰に当て,少し前屈みで距離を保つ。いつもこんなふうに現われるのだ。そして口元をわざと歪め,相手を挑発するかのように語尾を丸めて皮肉めいた台詞を言い放つ。
「“アイルランドの娘”はどこにいるんだい? 君に水仙を贈った覚えはないな。“ヒヤシンス”だろ,亜子の引用には間違いが多いからな」
「そぅお。でも,ケイト・ブッシュが〈水仙〉って歌ってたわ。今度,テープ貸したげる。あなたの好きなミック・カーンがベースを弾いてるのよ」
「プリンス・トラストか。あのライブで,そんな変な曲演奏ったかな」
「スティーブ・セブリンが出てなかったことだけは確かよ,エリオット先生」
「セブリンだって? ベルベッツの〈毛皮のビーナス〉は背徳なんて言葉がまだ美しく響いた時代のデカダンさ。それに所詮ニューヨークから生まれるのは,ジ・アメリカン・ウェイ・オブ・ライフと表裏一体のものにすぎない」
亜子はぼくの手元のスケッチブックを覗いた。途端,鼻先に皺を浮かべて笑った。
「この前,ABCでアントン・コービンの写真集探してたの誰だったかしら。いかにもポジ・パンって感じの詞じゃない。こういうのが好きなのよね,あなた。それとも〈ゴス〉っていった方がお気に召して?」
「いずれにしても趣味じゃないね。練習なんだろう?」
「中止よ」
「無駄足か。ドラマーはいいよ。ポケットにスティック差して来ればいいんだから」
「今度ライブがあるの,チケット買ってね。来なくていいから」
そのまま彼女は階段を二歩上がると振り返った。目が合った。
「さあ,モーリン・タッカーのお出ましよ!」

彼女は,しばしばスコラ・ジプシーの練習場に現われた。突然やってきては,いつの間にかスタジオから消えているのだ。昔からの友人のように亜子と付き合っていたのは,だからぼくがバンドと一番深くかかわっていた時期と重なる。素直に理彦の話を信じるなら,彼女はその頃スコラ・ジプシーを辞めたばかりだった。ではなぜ,アブセント・キングに移ったのだろう。

一度引いた汗が,思い出したかのように背中を伝っていく。ベル・エキセントリックまでの上り坂は短かったが,蒸し暑さのなか,下りのときの三倍くらいの距離に感じた。程なくライブハウスの看板が見える。地下へ続く階段を取り囲み,高校生なのだろう,二〇名ほどが固まっている。二時半を回っていた。平日のこんな時間から今夜のライブを待っているのだろうか。階段を降りるために列の途切れたところを横切ろうとしたとき,そのうちの一人と目が合った。階段ですれ違った彼女だ。

地下のガラスのドアはなく,その手前が鉄製の扉で閉じられていた。〈ベル・エキセントリック〉の名を記したプラスチックのプレートが中央に付いている。扉には鍵がかかっていて動かなかった。二,三度揺すったが,何の反応もない。これから開場まで締め切りになるのだろうか。
「六時まで開かないわよ」
階段を見上げると,上でさっきの彼女が言った。曇り空をバックに表情は見えなかったが,それでも全体が印象は明るいことだけは判った。狭い階段のなかに掠れた声が響いた。ぼくは階段を上った。
「三〇分くらい前までは開いてたんだ」
彼女にそう答えると,ぼくはビルのなかに入った。エレベーターを見つけ「B1」のスウィッチを押すが何の反応もない。「2」を押した途端,ドアが閉まり,そのまま二階へと昇っていってしまった。
「二時過ぎたらバァも『準備中』になっちゃうのよ」
「まるで定食屋だ。ぼくはランチタイムのバァにいたってことか」
「さっき出てきたでしょ。下でご飯食べてたんじゃなかったの?」
「打ち合わせさ」
「ほんとぉ! 誰と話してたのさ」
「中に入って待ってりゃよかったのに。音合わせしてたぜ,理彦」
「山沖さんと知り合いなんですか?」
隣にいた連れらしき少女に尋ねられる。その声を押しのけて彼女は続けた。
「だって高いんだのもの。ライブ二日あるし,お金かかるのよ」

背は低かったが,小さな顔を中心に全体のバランスがとれていた。化粧のていねいさが透けてみえるその顔はアメリカンコミックの登場人物のように部分が強調される。こうした少女が写真家のイマジネーションを刺激するのだろう。グレーのノースリーブに同系色のパンツでコーディネートし,ボディラインを強調するかのような姿勢で立っていた。
「学校は休みかい?」
「ライブハウスがあたしの学校よ」
なるほど,知らないうちに世の中は猛スピードで変化しているのだ。
「奴らメジャーデビューするんだろう」
「九月一日にシングルが出るのよ。絶対買わなきゃ」

ライブハウスに戻り,理彦に詳しい話を聞こうとやってきたものの遅すぎたようだ。入口はどこかにあるのだろう。どんなライブハウスであっても,出入り口が一箇所などということはない。いや,ロンドン郊外,週末にエルビス・プレスリーの偽物がスリーステージをこなすライブハウスには,出入り口は一箇所しかなかった。カウンターの片隅でビールを煽っていたさえない男が,やおら立ち上がるとプレスリーに変わる。だからアンコールを終え,酔っ払いに手を振りながらステージを後にするプレスリーは,店を出たら最後,次のステージが始まるまで階段に座り込み,客が店を去るのを待つのだ。一度,ぼくは階段途中で恥ずかし気に笑うプレスリーと会ったことがある。スポットライトが当たっていなくても冴えない男に変わりなかった。

「TGって,何のことだか知っているかい」
「やだ,シングルのタイトル知らないの。ほら,ポスターあるじゃない,そこよ」
地下の入り口に通じる階段には,確かに〈TG〉と大きく記されたポスターが張られていた。さっき気づかなかったはずだ。文字があまりにも大きいため,地模様に隠れてしまうのだ。
「メッセージ性も何もあったものじゃないな。およそデビューシングルのタイトルらしくない。シングルなんだろう? アルバムじゃなくて」
ぼくの話など興味なさそうな様子で顔を背けた。
「決まったんだからいいじゃない。そんなもの」
そのまま数人列を組んでガードレールへともたれかかる。その姿は,ただ時間が過ぎ去るのを待つ捕囚のようだ。ライブを控えた高揚感はどこにも見当たらなかった。定められたストーリーとアンコール。明りが点き,すべては終わり,そして,またレゲエがかかる。何もひきずるものなく,繰り返される。ぼくはロンドンのプレスリーを想った。彼にあって,彼女に必要でないものとは一体何なのだろう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top