大野更紗と開沼博の『1984 フクシマに生まれて』を電車のなかで捲っていた。思い出したのが「やらせ」という言葉が出てきたときの救いようのようなものだった。
「やらせ」にはいくつもの意味があるのだろうけれど,私にとって救いだったのは,「やらせ」であることを笑いに置き換えていく所作であって,それ以外のさまざまについてまわる言説はまったくの埒外だ。たとえるならそれは,100個のうそで1つの真実を紛らわせてしまうような衒いを伴った吐露で,1から10まで真実で固めようとして2つや3つで躓くのとは似ても似つかない。
この本に,ただ,そうした「やらせ」の風通しのよさを感じなかったのがかなり印象的だったので,読みながらその欠落を補っていた。