記憶装置

いまだに大学に入った年の夏を思い出す。それは喧騒に囲まれた日々で,笑っていないと不安になってしまうかのように,くだらない会話は途切れることがない。人は話してばかりいると息ができなくなることを知ったのもこの年のことだった。

そう話すと,高校時代のかなりの時間を共有した(この前書いたとおり,学校まで自転車で片道40分かかる通学をほぼ3年間,ともにしたのだ)友人は,とても羨ましそうに聞いていた。もちろん,羨ましい会話は「チキチータ」ってどっちが苗字なんだ? とか,もう寝ようというのに電気を消すと「喬司はん……」とぼそっと呟く声とか,あまりにもくだらないものばかりだったのだけれど,鄙びた北越谷の景色と相俟って,Summer1984とでも名づけたくなるように怠惰で他に変えようのない貴重なものだった。

当時は日々の記録をつけていたものの,喧騒があまりに急激に膨らむものだから,記憶が追いついていかないことがしばしばだった。だから,当時の記録には,その日買った本だとか,食べたもの,せいぜい誰がやってきて誰が帰ったかくらいしか記していない。

自宅で接続してインターネットを利用するようになったのは今世紀に入ってからのことだった。SNSのはしりのようなものにはじまって,無料サーバを利用して記録をつけるようになり,サーバを有料で借りた今日まで,紆余曲折はあるものの,記憶装置としてしか用いていない気がする。

その記憶装置が意外と価値あるものだと,今頃になって,少し感じるのだ。

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