北村薫

読書会の課題は北村薫の『飲めば都』(新潮文庫)だった。

戸板康二から泡坂妻夫直系の短篇推理小説家として北村薫が登場した頃,一連の作品には代替できない魅力をもっていたと思う。戸板康二の物語を新井素子の語り口で展開するというのは発明だった。

で,『飲めば都』は,いやどうしたのだろう,このぐずぐず感は。課題だったので,おかしいなと思いながらも,とにかく1回読み終えた。

1週間ほどして,気になってページを捲ってみた。ほとんど何も記憶に残っていない,そのことに慄いた。そんなことってあるだろうか。ページを閉じ読書会の日までそのままにしておいた。何も言うことはない。テレビドラマや漫画の原作,手癖で書き散らかした作品。でもなあ。

当日,地下鉄のなかで再びページを捲ってみた。何かなぞかけがあるに違いないのだ。

無理やりに気にしてしまうとするなら,それは人称の問題だ。北村薫の小説によくあるように,この小説も三人称で記されているのだけれど,語り手の出しゃばり加減が非道いというか過剰なのだ。単に才能が枯れた小説家の作品だからしかたないといってしまっては何も始まらない。もしかしたら,これは一人称の小説なのではないか。いや,そうやって読んでみる。読まなければならない,語ることを見つけるためには。

主人公の都が,しあわせな家庭生活を営めるはずはない,というのは,最初に読んだときに唯一に近く感じたことだった。この物語の続きで都は地方で結婚生活を続けてものの潰える。編集者をしながら小説家をめざしている。都が書いた第一作がこの小説だ。人称の問題はどう考えよう? 自分のことを都を読んでしまう,それは矢沢永吉が「矢沢は」と,平沢進が「ヒラサワは」と呼ぶのに近くはないか。プロレスラーが自分に「さま」を付けて「おれさま」と呼ぶのとは近くないけれど,みずからに対する絶対性のようなものは,それでもどこか似ているように思う。

矢沢も平沢も男性だ。たとえば松任谷由実が自分のことを「松任谷」ということを考えてみる。70年代は「荒井は」と言っていたのが,結婚した途端,「松任谷は」と,でも変えられるだろうか。自分のことを姓で呼ぶ所作が致命的なのは,姓が変わってしまうと絶対性は殺がれることだ。では,どうすればいいのだろうか。いや,ムロツヨシの妖怪の話ではない。そう,みずからを名前で呼んでしまえば,それは変わりようがない。だから,主人公は自分のことを都と呼び,出来のよくない小説を書き終えた。

この程度の小説だ。彼女の小説家としてのキャリアはないに等しい。何らかの理由で,北村薫が彼女の小説をみずからの名で発表した。今後,種明かしがあるに違いない。

地下鉄で15分。そんな物語をまとめた。

とでもして読まないと,読めたものではない,この小説。

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