通りに面したビルの地下,昼時で満員の中華料理店だった。厨房から客席まで中国語が飛び交うものの,今どきめずらしくもない町場の食堂だ。出て行った客と入れ替わりに,そこだけ空いている席に座った。ほぼ正方形のテーブルの向かいには,私より一回りは上の客が,定食をつまみに昼から瓶ビールを飲んでいた。ボクサーがそのまま歳をとった感じのスキンヘッドのおやじ。左腕の橈骨動脈あたりに点滴痕が見える。
吉村昭の『星への旅』を捲っていると,何やら話しかけてくる。
「中国人は,つり銭をごまかすから,死んだあにきは計算できるんで,いちいちチェックしていましたよ」
そ奴は弟で,兄はすでに亡くなったのだな。
「ホテルニューオータニの,ええと,何ていいましたっけ。そうそう維新號だ。あそこだってごまかすんですよ。さすがにオークラは違ったけど」
どうでもよい話ばかりだけれど,なかなか注文は来ない。昼間のビールは旨そうだな。でも,維新號ってニューオータニに入っていないだろう。
「旨いから,それでもよく通うんですよ。なのにつり銭はごまかすんだ」
いつの間にか定食を平らげ,ビールも飲み干した。ホッとしたのもつかの間,定食を追加し,紹興酒を注文した。定食2皿に瓶ビールと紹興酒,いったいどんな胃袋をしているのだろう。いきおいそ奴の話は続く。
「旨いもの食いたいじゃないですか。私なんて箱根のオーベルジュ……」
「ミラドーですか」
「そうそう,あそこに最低でも月1回,多いときは毎週末行ってますよ。あそこの左手の方の部屋はおばけが出そうなんだけど,温泉があそこだけついるんですよ」
「西麻布のビストロ・ド・ラ・シテに行かれたことはありますか?」
「……」
「あそこのシェフだった方が開いた店ですよね。だから,おなじようにうずらの卵が出てくるんです」
「朝,食べました」
話が通じない。他人の話より自分が話したいタイプだということは,座るだけでこちらに伝わってくる。グルメではなくグルマンだな,こ奴。2皿目の定食をつまみに紹興酒をあおる。
「そうそう,西伊豆の淡島ホテルはいいですよ。父親が会員権持っていまして,それを譲り受けてよく行くんです。あそこは子どもは泊まらせないし,船を出して遊覧もできるし,のんびりするには一番です」
というような話を,平皿に恐ろしいいきおいで盛られた牛バラ肉(といっても燻製で,旨かった)のあんかけご飯を何とか詰め込みながら聞かされた。そう,聞かされたのだ。