敗戦後論


ハードカバーで買い直した(古本)加藤典洋の『敗戦後論』(講談社)をようやく読み終え,何だか面白くなってきたので,突っ込みを入れながらもう一度読み返している。

ヴェトナム戦争の傷は,一つにはその戦争が「正義」を標榜したにもかかわらず,「義」のない戦争であったことからきている。日本における先の戦争,第二次世界大戦も,「義」のない戦争,侵略戦争だった。そのため,国と国民のためにと死んだ兵士たちの「死」,――「自由」のため,「アジア解放」のためとそのおり教えられた「義」を信じて戦場に向かった兵士の死――は,無意味となる。そしてそのことによってわたし達のものとなる「ねじれ」は,いまもわたし達に残るのである。
p.10

戦争に負けるということは,いわば自分にとっての「善」の所与が,奪われるということ,どのような願いもほんとうの形では果たされず,ねじれた形でしか世界が自分にやってこないということだが,その自覚がつまりは,美濃部の出発点となっているのである。
p.30

「義」をたよりに戦争をして,気づいたら2,000万人を殺戮していたとしたら,初手から「義」などありはしないのは明らかだ。正しい戦争など,ありはしない,という前提に立たなければ,たぶんものごとを考え得ないのではないかと思う。当時,連合軍側はすでにアジア・アフリカに植民地を抱えている。坂口尚の『石の花』にさえ,はじめの頃の一コマにそのことははっきり示されている。第二次世界大戦で,どこに正しい戦争をしていた国があるというのだろう。

加藤の一連の言説に違和感を感じるのは,戦争に対するイメージのしかたが,マンガや映画よりはるかにプアだというところに一因があると思う。敗戦のイメージについても同様なのだけれど,それは改めて。

実家に向かう電車で読み進め,帰りに駅前のスパに入りながら本を読もうと,手前の新古書店の100円棚をチェックしたところ,『消された一家―北九州・連続監禁殺人事件』(豊田正義,新潮文庫)があったので購入。湯船につかりながら読んでいたのだけれど,これほど風呂で読むのに適さない本はない。帰りの車中,続きを読んだものの,ここまで気分が悪くなる文章を読んだのは初めてかもしれない。

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