「治らない病気」と「治せない病気」

かなり前に書きとめたことかも知れないが,このところよく目にするので,改めて。

20世紀の終わりごろ,仕事の関係でターミナルケア,ホスピス,在宅医療に携わる(めざす)医師,看護師,薬剤師などから話を聞く機会に恵まれた。出張にからめて取材を企画したこともあり,鹿児島から福島あたりまで200人以上とじかに会ったり,電話やメール,ファクシミリでやりとりした。

ここでは医師の話になるのだけれど,当時,とても気になったのは,医師が末期がん患者に対して「治らない」と容易く客観化してしまう思考だった。つまり「医学的にあなたは治りません」と(そんな直接的な言葉ではないにせよ)突き放してしまうように感じた。それが,ターミナルケア,ホスピスなどに携わる医師であれば,なおさらに。

そこで若かった私は嫌味ったらしく尋ねたものだ。「末期がんは先生にとっては『治らない病気』なのでしょうか,それとも『治せない』病気なのでしょうか?」と。

はっきり「治せない病気」だと言葉にされた医師は思いつくかぎりだけれど3人しかいなかった。

まあ,「治らない」か「治せない」かは大した差じゃないといわれたことも少なくないけれど,にもかかわらず,「治せない病気」というところから始まることだってあるんじゃないかと,私は思った。

看護師の場合,初手から「治せる」という,まるで人を操作するような感覚の埒外にいるから,「治せないけれども,できることがあります」と,平気で言葉にした。ところが医師は「治せない」と表現することに,それはおかしいくらい躊躇いをみせるのだ。

その後,若い医師のなかで,「治せない」ところからスタートするといった文章が表されるようになり,少しは風通しがよくなったのだろうかと見回しても,それほど変わりないように思う。それはたぶん,「治せないにもかかわらず,その人に対して何がしかの操作はできる」という認知行動療法的思考が,間隙を埋めてしまったからではないかと,歳をとっても結局,穿った見方から離れることができない。

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