巴里茫々

北杜夫の『巴里茫々』を古本屋で手に入れたのは少し前のこと。最晩年に刊行されたこの本はまだ読んでいなかったのだ。100円棚に無造作に置かれたきれいな上製本をそのままにしておくのは忍びなかった。このところ,そんな理由で本を抱える回数が増えた。

2編が収載されていて,表題の,内容が整理されていない感じは懐かしい。とにかく北杜夫は文章がきれいだ。中学から高校に至るかなりの時間,この人の文章を読んで過ごしてきたことが思い出された。

少し前,河出書房新社から数冊出ているエッセイの再編集版を買って読んだあたりを契機に,少しずつ北杜夫の小説を読み返している。初期の短編はもとより「ぼくのおじさん」でさえも,いまにして思えば“ここではないどこか”を希求する登場人物による物語りで,その求心力はいきおい“どこか”に向けて高められる。北杜夫の小説については奥野健男くらいしか評論を読んだ記憶がないけれど,誰か書かないだろうか。

結局,博打と株に手を出さずに,小説とエッセイを書き続けながら,晩年はどこかの大学教授を兼務するという選択だってできたはず。たとえば辻邦生のように,だ。

出口裕弘は三島由紀夫に関する評論のなかで,バタイユと賭博について触れている。ロシアンルーレットにさえ手を出したというバタイユ。ちょうど,そのあたりを読み終えたところだったので,北杜夫の博打についても躁鬱病とは別に,それ自体,興味深い分析の対象になるように思った。

1980年代に入り,『輝ける碧き空の下で』を読んで,やはりすごい小説家だと感じた頃,しかし巷では,少し北杜夫の小説は時代遅れのようにいわれていたように思う。すでに村上龍と村上春樹が登場していたし,小林恭二が控えていた。小説に端正さ以外であれば何でも求められるようになった頃のことだ。

私は北杜夫から矢作俊彦の小説へと興味が移っていった。

後に矢作俊彦が,日本の小説家である程度読んでいるのは,三島由紀夫と北杜夫くらいと語っているのを目にしたとき,結局,私の関心のありかはあまり変わらなかったのだと思った。

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