刺激と反射

その当時,流布されたうわさに「『テトリス』はソ連の軍隊で人を殺すための教育の1つとして開発されたもの」というものがある。「当然,事実ではない」とWikiにさえ記されているけれど,うわさを目にしたときの感じは今も覚えている。

なんらかの判断が,刺激と反射に置き換わっていきかねない「場」に抵抗感をもってしまうのは,そこに何者かの意思が介在しうるからなのだろう。

徹が『洗脳の時代』(宇治芳雄)をもっていたので,借りて読んだことがある。80年代のなかばのことだ。内容はほとんど忘れてしまったものの,出だしのエピソードは覚えている。朝鮮戦争中,ソ連の捕虜になった米帰還兵の多くが共産主義を礼賛する原因を調査した結果,洗脳の事実が明るみに出たという,下手なホラー小説を遥かに越えた恐ろしさだった。面白いノンフィクションは大概,同じような怖さを持っている。

しばらくして友人がマルチ商法にはまり,数年後,会社の同僚が自己啓発セミナーに拉致された。まるで本のなかの出来事が目の前に現れたような感じだった。さらに少し後,高円寺の駅前ではオウム真理教とスポーツ平和党が舌戦する。そんなこんなに『洗脳の時代』がちらついた。とりあえず,私自身,それらに絡めとられることはなかった。

主体(あいまいな言葉であることはさておき)を,刺激と反射で「操作する」なんらかの意思――得てして善意に触発されたものとされるのだけれど,善悪の価値判断は関係あるまい。ましてやそれが河合隼雄いうところの“メサイヤ・コンプレックス”だとしたら,たちが悪いったらありゃしない――,人を操作するように働く考え方,しくみ,その他諸々,に対して抵抗感をもつのは,きっと80年代のはじめに『洗脳の時代』を読み,徹とあれこれをネタにして語ったからなのだろうと思う。

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