辻邦生

神保町の古本まつりに出かけたのは数年ぶりのこと。救世軍の前あたりの出店が他の場所に移っていたけれど,何ともにぎやかな雰囲気だった。

マルティンベックシリーズ4冊,篠田一士,山川方夫,松下竜一,アリス・マンローあたりを手に入れた。にしても,本が増えて読み終えられない。

出店をひやかすと,辻邦生の小説がたぶん,ほとんど揃うのではないかというくらい並んでいた。読まれないのかなと思いながら帰る。

どこかにみずから書いていたはずだけれど,1980年代のはじめのさまざまな変化は,辻邦生にとって厳しいものだったのだろう。『もうひとつの夜へ』を読んだときの悪い意味での衝撃が忘れられない。それは1960年代末から70年代はじめにかけての手塚治虫のような印象だ。

今日は風邪気味で一日,寝床で本を捲っていた。久しぶりのことだ。没後に刊行されたエッセイ集の一節。1980年代はとにかく,この手の言説は流行らなかったのだけれど,いまにして思えば,さまざまなヒントがある。

「辻さん(辻邦生),芸術的情念というものは単なる主観的な燃焼ではありません。それは客観的な形式に分節(アルティキュレ)されなければならぬものです。古代ギリシアの詩はまさしくこうした存在です。芸術的情感は主観的な恣意的なものではなく,客観的に秩序化され,方法化されているのです。そのもっとも見事な例はバッハでしょう。バッハの音楽には激しい情念が渦を巻いています。しかしそれはきちんとした客観的な秩序のなかに定着されています。誰でも真摯な心でその秩序のなかに入ることができれば,いつでもどこでも,その情感に達することができます。完全な演奏とは真にその秩序に達することです」

 私はその言葉を聞きながら森さん(森有正)が全身を躍らせるようにしてパイプ・オルガンを弾いていた姿を考えていた。音楽の秩序の中に身を置き,その秩序通りに身体を動かすことが音楽を生きることであるに違いないと思ったのだ。もちろん音は秩序に応じて鳴り響いているが,それは受身に音楽の美的流れとして聞くのではなく,行動の厳密な指示体系に従うようにして音楽という全体を時間の中に分節してゆくことだ――森さんは私にそのことを解らせようとしていた に違いない。

(中略)

美が主観的な衝動ではなく,客観的秩序だということは,なかなか理解しがたい。だが,これは芸術創造に加わる者は骨の髄まで知っていなければならないことだ。

(中略)

バッハにとって新しい音楽に接するとは,その構造全体を摑み,いわばその全体を支配する生きた原理を会得し,それを再生産的に駆使し得るようになることであった。彼は個々の楽曲なり,形式なりを経験的に学ぶのではなく,そうした楽曲・形式を生み出した構造原理を洞察・消化してゆくのである。

(中略)

「インヴェンション」と「平均律クラヴィーア曲集」が音楽を教える教程として作曲されたことは,二重の意味で,バッハのかかる普遍性を力強く物語る。一つ は,魔神的な情緒(アフェクト)の暗部から創造される音楽が,着想から作曲過程の細かい工夫を経て,作品という生命的構造体に到る道が,説明可能・教育可能なものとして,合理的な光のもとに置かれているということ。もう一つは,にもかかわらず,かかる啓蒙的な分析と綜合のなかで,それを喚び起こした根源的な意欲が,全自然に生命を与えるものとしてそこに矛盾なく動いていること――この二つである。前者がなければ,芸術創造は自然発生的な衝動のなかに謎となって隠されるほかないし,後者がなければ,分析的理性が存在の一切を解明して,理性そのものを到来させた宇宙の根源力をも否定し,ある種の科学的世界観のような浅薄な合理主義に支配されることになる。バッハの奇蹟は,教育システムという客観性に即して,この両面を一挙に照明したという点にあろう。

(中略)

現在,人格教育と技術教育という,教育理念そのものの大きな分裂があるが,すでに教育という営みのなかに世俗性と宗教性(あるいは超越性といってもいいが)が存在する。そのことの具体的理想像がバッハの音楽姿勢のなかに見てとれるといっても,決して言い過ぎにはならないだろう。
辻邦生:バッハの神に沿って―森有正の思い出に

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