成子坂下

以前,記したことがあるかもしれないけれど,成子坂下のビルに事務所があった頃,酒本君という同僚がいた。彼は20代前半で,私が入った1年後に入社し,それから1年ほど一緒に仕事をした。

仕事中に話すことはなかった。話すのは,昼食をとりに外へ出るときと,仕事を終えJR新宿駅まで一緒になったときくらいだった。

会社だからいろいろな人がいる。今にしてみれば酒本君は年相応,変わったところはない。でも,その当時,「変わった奴だな」と思っていたことは覚えている。付き合いはよくない。私生活についてはほとんど話さない。話に感情がこもるのは怒るときくらいだ。会社については見下したような様子で,「腰掛でいるのだなあ」と誰もが感じていた。

事務所には化粧室がひとつしかなく,そこは女性が使うことに決まっていた。男性は一度,ビルの外廊下に出て,2フロア下にある共同トイレを使う。

酒本君がトイレに行くと1時間近く戻ってこないことに気づいたのは入社しばらくしてのことだった。仕事中の1時間だから,それは長い。同じプロジェクトにかかわっていた奴はそれでも気のよい奴だったので,お腹の調子が悪いのだろうとくらいにしか感じていなかったようだ。そ奴が酒本君のトイレについて何か言うようになったのは,かなり後だったと思う。

昼食には成子坂下の喫茶店に出かけることが多かった。行くのは私と葦野,そこに酒本君が加わった。その喫茶店は,志村けんが扮するラーメン屋の老婆をそのままこの世に降臨させたような老婦とその連れ合い,2人で切り盛りしていた。

メニューの数はそれなりにあるのだけれど,調理ひとりフロアひとりでこなすものだから,とにかくできてくるのが遅い。それぞれが食べたい品を頼むと,ボソリと「Aランチだと早くできるんですけどねぇ」,老婦のそんな声が聞こえてくるのだ。葦野も酒本君も,初手からそんな誘いに乗るような奴ではなかった。それぞれにオーダーし,昼休みギリギリに戻るような日が増えた。そしてある日,老婦は「同じメニュー注文してくださいませんかねぇ」と切り出してきた。私たちにとって,それが,これっぽっちもなるつもりではなかった“常連”にさせられてしまった瞬間だと気づいたのは,それから数日,経ってのことだった。(つづきます)

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