成子坂下

「あれだけ長いと,それはわかりますよ」葦野は即答する。

「こっそりTOEICのテキストもっていって勉強してるんです。この会社,それくらいにしか使い道がないじゃないですか」酒本は辛辣というか,給料を得ている立場からもっとも遠いところにいるかのように語る。彼が会社帰りに英会話教室へと通っていることは聞いていた。そちらのほうが本気だったのだ。

「資格とって転職しないと,いつまでもこんなところにいられませんよ」

こんなところにいるわれわれは頷いた。

その後,しばらくして酒本君は上司に呼び出され,その勤務態度を質された。「なんでトイレ時間が長いんだ?」などというやりとりがあったであろうことを想像すると,何だか当時の緩い感じが蘇ってくる。

一度だけ会社帰りに坂本君と映画に出かけたことがある。このことも以前,記した記憶がある。その頃,酒本君はヤクザ映画と大量殺人者に関する記録に興味をもっていた。その手の本がさまざまな仕立てで刊行された頃だったので,何かの機会で目にしたのかもしれない。「ほんと,ダメな奴らなんですよ」過度に感情移入するわけでもなく,どちらかといえば,というか明らかに見下していながらも,それらの本に関心をもつ自分に対しての視線は無防備だ。

同じ職場にいたからというだけで,酒本君と私の接点はあまりない。それでも1年と少しの間とはいえ,決して少なくない会話をし,どちらかというと親近感をもったのは,その自分に対する視線の無防備さになにがしかの面白さを感じたからだろう。

新宿武蔵野館で「ヘンリー」を観に行った話も書いたと思う。酒本君の感想は「しょうがないなあ」の一言だった。

しばらくして事務所が移転し,酒本君は退職した。成子坂下は日々過ごす場所ではなくなった。事務所があったビルに用事のため出かけたことがある。昼時にかかったので,しばらくぶりにあの喫茶店に入ってみた。老婦は健在で,私を見た途端,うれしそうな顔をして席を案内した。

「久しぶりねえ。みんなに来てもらうよう言っておいてよぉ」

「事務所が移転したんです。今日は用事があったんで久しぶりに来たんですけど」

「そうなのぉ。さびしいねえ」

昼時だというのは客は私だけだった。

 

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