永六輔

自切俳人と名乗っていた頃の北山修に影響を受けたことは,これまで何回か記した。はじまりはBCLブームだったのだろう。

昭和50年代に入った頃,海外の短波放送を受信しベリカードを送ってもらう趣味が小学生にまで広がった。中野照夫はいまだにスカイセンサーを“楽器”として用いているようだけれど,その頃,ラジオは恰好のよいモノだった。その少し前にトランシーバーブームというのがあって,それが発展したのかもしれない。

ラジオがあるのだから,ラジオ放送を聴くようになる。深夜放送前,21時台あたりから各局,力の入ったプログラムが練られていた。はじめはラジオ図書館風のコーナーから聴いたような気がする。それがだんだんとディスクジョッキーの“しゃべり”(この特殊な言葉は,その後J-WAVEが開局した頃,業界人の間でしばしば用いられた。この項,そのあたりまで続けると思います)の好みが出てくる。

友人からニッポン放送が面白いと聞き,ダイヤルを合わせたものの,じきにTBSラジオのほうが好みに合うと気づいた。「夜はともだち」,小島一慶,林美雄の頃だ。午前を過ぎてまでラジオを聴かなかったので,当時はギリギリこのあたりまででも十分宵っ張りだった。そのうち,当時北関東に住んでいたというのにMBSヤングタウンに移る。ここでも午前0時を過ぎて聴くようになるのは少し後のことだった。(長くなりそう。永六輔の話が登場するのはかなり先)

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