読書会のテーマ本は『コンビニ人間』だった。夕方からの打ち合わせが早めに終わったので,30分くらい遅れで参加した。
何人かがアスペルガー症候群,発達障害について思いめぐらせたと発言されたのでハッとした。それは岸政彦の『街の人生』について以前,記したことにつながる感想だ。
つまり,違和感/差異を抱え込んでいる側が,ギチギチに意味と親和性をもつということ。そして「治療」がどこまで了解可能な行為なのかということだ。
それらは,ある種の狂気やアウトローさが,「暴力的な意味化」から逃れているがゆえに,何がしかのシンパシーやあこがれ,イマジネーションを覚える対象であったことと正反対だ。判断と行動は概ね,「意味」として説明がつくものにもかかわらず,それは社会的コンセンサスから距離がある。1つひとつの判断は妄想ではないし,正解(ただしさ)の裏づけがある。
これまで描かれた物語の多くは,「正常の社会」には正解の裏づけがあり,正しさに基づいている。その社会に違和感を覚える/異化される人物は,抽象的なもの,あいまいさを持っている。でも,それは果たして本当におかしいことなのか? という方向で物事を見て,進めてきたように思う。しかし,『コンビニ人間』の主人公を通してみると,社会のほうこそ抽象的であいまい,割り切れない。
「社会との差異感をもつ」ことだけでは,この小説の主人公に,これまで数多の小説で描かれてきたような人物と同じく,ロマンや共感,ヒロイズムなどを感じることはむずかしい。(加筆予定)