「ともに」の余白

これも何度か記したことだけれど,演出家の竹内敏晴さんに連載いただいたのは1996年後半から1年ほどのこと。たどりついたキーワードが「人の身になること」で,ただ,ではどういう切り口で次の企画を立てられるかまったく見当がつかなかった。

執筆をお願いする状況が途絶え,10年ほどして竹内さんの訃報に接した。立川で鳥山敏子さんたちが発起人になった竹内さんのお別れ会に出席させていただいたときにも,まだ「人の身になること」の続きは見えなかった。第一,竹内さんに書いてもらおうと思っていたのだから,どうしようもない。

別の企画を進めるなかで,もやもやした霧のようなものが見え始めたのは,5,6年前のことだった。“ナラティヴ”や“リフレクション”などがこの界隈にも浸透してきたころで,ただ,そのときも次の企画がとん挫し,連載の後始末をしに大阪や神戸に何度か出かることになった。

「ために」と「ともに」の違いを意識したときのことは,実のところ覚えていない。記録をひっくり返せば,何か出てくるかもしれないけれど,とにかく,まず目の前の事象を「ために」と「ともに」のスリットを通して見直してみた。

それなりに整理がついた時期に,企画の関係で野村直樹さんに原稿を依頼することになった。一度,野村さんから電話をいただいたので,そのときに「ために」と「ともに」の件を話した。数週間後,メールで届いた原稿には,「ために」と「ともに」の違いがとてもわかりやすく紹介されていた。

「ために」というのは一人称。自分勝手で,時にはおせっかいに感じられる所作に陥る可能性を常にもっている。

「ともに」は二人称だ。相手にむけてボールを投げ,届くボールの距離,大きさなど手ごたえを感じながら位置を修正して投げ返す。

「人の身になる」ことは,一人称である「ために」のようにとらえられかねないけれど,実は二人称の「ともに」なのだ。ときどき,竹内さんからの返事を想像する。

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