林竹二

夕方から高円寺に出かけることにした。

新井薬師前で降り,久しぶりに古書案内処の均一棚を覗く。日向康『林竹二 天の仕事』(現代教養文庫),石森章太郎『宇宙からのメッセージ』(小学館)を購入。飲み屋街を歩いて駅まで行き,高円寺に向かう。古本屋を少し覗いて,家内と娘がくるのを待つ。パル~ルックをぶらぶらしながら進み,カフェ文福で休む。私だけアニマル洋子を覗きに出かけて数冊購入。アルバイトが早い娘に合わせて夕飯を済ませてしまうことにする。ハティフナットで軽くとる。

日向康の本を捲りながら印象的だった箇所と,林竹二の本から抜粋。

かつて、田中正造は当時の憲法、大日本帝国憲法を蔑ろにする政府に向かって〈政府、自ら侮りて国を危うくす〉と嘆いた。正造にとって政府とは「人民」の“世話”をする事務所であって、その“世話”、つまり行政の基準は飽くまでも憲法という理解だ。したがって、政府が憲法を踏みにじった場合、それは〈自ら〉を〈侮る〉行為であり、国の存立基盤を侵したことになる。国は、このとき政府によって滅ぼされるのである。正造の考える亡国とは、このようなものだった。
日向康『林竹二 天の仕事』(現代教養文庫)

いままでの授業研究というのは、授業案を片手に持ちながら授業を見てますね。そして、ちょうど時間どおりにきちっとおさまるとか、板書がどうかというようなことで評価がされる。やっぱり教師の活動を見ているわけで、子供のなかにどういうことが起きて進行していくかということはほとんど問題にされない。そういう定形化してしまった授業から教師が解放されることがさしあたりの問題だと思いますね。しかし、では解放されて何をするのかという問題になると、教員養成大学を含む大学で、そういうときの直接に力になるものは何も与えていない。だから、それらの教師としてのいわば専門的な力量というようなものは、斎藤喜博さんは現場に出てからしかやれないんだということを言っているわけですが、教育の現場は、大学を卒業した者を受け入れて、教師としての専門的な力量を養わせるための教育の場としての機能は持っていない。付属学校の実習を見ても、単なるベテラン教師のテクニックを押しつける形でしか指導はなされていない。だから、実習期間の延長は、授業を根本から考え直す努力とはおよそ正反対の効果しかもたらさないでしょう。教員養成については、私は絶望しているんです。

私は六年間教員養成大学の学長をしてきたわけですけれども、その間、いろいろなことをやってみました。しかし、結局、何もやれなかった、否、やらなかった、というのがこのごろの私の実感です。何もできなかったというよりは、何もやらなかったというほかない。いま私として考えているのは、新しく大学を出たばかりの教師が、自分は教師だ、だから教える資格があるんだというようなとんでもない思い上がった気持ちを持たないように、それだけのことはしておかなければならなかったという気がします。そういう増上慢を捨て、ほんとうに人間対人間として子供に向き合っているなかから何かを学んでいってもらいたい。
林竹二・灰谷健次郎『対談 教えること 学ぶこと』(小学館)

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