手塚治虫

徹や昌己と会った頃,話がかみ合った理由の1つは「手塚治虫体験」のなさだと思う。「少年ジャンプ」「少年チャンピオン」連載の漫画から「ガロ」に接ぎ木された体験のようなものだ。手塚漫画を意識したのは,たぶん泉昌之の漫画を通してだった筈。昭和60年代に入ってから,「奇子」や「きりひと讃歌」など大都社で刊行されていた手塚漫画が,われわれの話のなかに登場するようになった。

どこかで読んだ文章に,似たような感覚をもつのだなあというものがあって,それは手塚治虫が描くフォルムが恐ろしかったというものだ。私は子どもの頃,手塚治虫の線とフォルム,どこかドロリとした感じを受けるそれが苦手だった。というか怖かった。今にして思えば,あの特異な線とフォルムを武器にすれば手塚治虫のその後の評価は違ったのかもしれない。石森章太郎の線とフォルムは冷たく,見るものをグサリを刺すけれど,手塚治虫は生暖かい。洗練されていないゆえに,それは武器になっただろう。

手塚治虫は石森章太郎ほどには絵が上手くないし,カット割りの工夫は,1970年前後にすでに限界を迎えている。キャラクター設定と物語展開の巧みさで1970年代を乗り切ったように思える。それさえ,少なくとも物語展開の巧みさについては,松本清張,水上勉など社会派推理小説から受けた影響が露骨に見える。

われわれにとって,1960年代までの手塚治虫の漫画には思い入れは何1つなかった。「火の鳥」について話した記憶はあるけれど,すくなくとも「鉄腕アトム」を語ることはなかった。手塚治虫を語る私たちは,だから,どこか後ろめたさを常に抱えていた。モンモウ病は話題に出ても「地上最大のロボット」については興味がまったくないのだから。水木しげるやつげ義春とは違うのだ。

かなり後になって,「火の鳥」太陽編に八百比丘尼が登場したときに,昌己がかなり驚き,感動した様子で語ったことを思い出す。

『銀河鉄道999』や『ドカベン』を1冊1円でさえ古本屋が引き取ってくれなかった体験を共有しているけれど,そこに『ブラックジャック』は含まれていなかった。

手塚治虫体験のなさという共通体験は,掘り下げていくと面白いと思う。

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