とうに折り返しを過ぎて

朝は少し早く出社して,いくつかの仕事を片づけ,打ち合わせのために広尾に行く。久しぶりに渋谷経由で学バスを利用した。このところずっと恵比寿駅を使っていたのだけれど,つばめ返しと同じ,結局,おとなしく渋谷駅でバスに乗り換えたほうが便利なのかもしれない。

20時くらいで仕事を終え帰宅。

映画「ぼくのおじさん」が公開されたためだろうか,北杜夫に関する記事や本を目にする機会が増えた。中学生の頃に読みふけった手持ちの北杜夫の本は痛みが非道い。しばらく前から,状態のよい文庫本や単行本を手に入れている。また,本が増えていく。マンガもそうだけれど,同じ作品を何回も買ってしまうのはどうしたことだろう。

数年前,石森章太郎のマンガを読み返したとき(日々,枕元に何らかの石森章太郎の本は置いてある),マンガを通して教養を伝えようとする意図が多分にあったのだろうことを感じ,驚いた。週刊少年サンデー版の「サイボーグ009」短編シリーズは,編集者が持参したノートをもとにアイディアを膨らませたそうだけれど,たえずそこに石森は科学の教養を盛り込もうとする。教条的にならないように仕組まれた物語は,結局,そのために面白さを殺がれてしまったかもしれない。「アスガード7」の内容はすっかり忘れてしまったものの,1970年代,少なくとも学習雑誌に連載された石森のマンガは同じように教養を伝えることが目的だったように思う。編集サイドからもたぶん,要請があったのだろう。読み直してみると,石森のマンガの多くにさまざまな教養・知識が盛り込まれている。それが他のマンガ家との大きな違いともいえる。

今月,石森章太郎論の本が出るそうだけれど,いつくもの切り口で石森マンガは見直し可能なはずなのだ。だから石森章太郎が伝えようとした教養というテーマで論考が発表されてもおかしくない。

40歳を過ぎて北杜夫の小説やエッセイを読み返したとき,実は同じことを思った。エッセイにしても小説にしても,とにかくどこから引っ張ってきたのだろうと思うくらい情報量が多いのだ。

そんなことを考えながら,昔読んだ本を再び買い始めたとき,人生の折り返しを過ぎたのだと感じたことを思い出す。これまで読んだり,聴いたり,観たりしたものから受けた面白さを,結局,反芻していくのだろうと。

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