沈黙


時々,眼をあけると叩き破られた戸の間から星のない真暗な夜空がみえました。
遠藤周作『沈黙』

今月の読書会の課題本『沈黙』をつらつらと読み始めた。矢作俊彦がどこかで書いていた(話していたのかもしれない),欧米人にとって神は父親なのだけれど,日本人にとって神は母親だというくだりを,ふと思い出す。大川悠との対談(FM横浜の「アゲイン」)だったかもしれない。

まだ全体の1/3あたりにもかかわらず,(一般的な)母親に期待するかのような心性で神に向き合っているかのような,今のところの印象。

SNSで流れていくつぶやきを追っていて,これはコミュニケーションではないのだな,とようやくそのことを理解した。正しい/誤りの価値判断で,誤りをいくら叩いたからといって,そこから何か新たな価値観が生まれる可能性はほとんどない。仮に誤った(?)発言をつぶやいた者がいたとしても,そのこと,その人をどのように容認するのか,その間隙をつくることに期待してもしかたないのだろう。そうした発言者がSNSから離れれば,それはそれは心地よいタイムラインの流れは生まれる。

でも,目的が逆になってしまっているように感じる。おかしなつぶやきを探して潰す。つぶやきやその背景にある事件をメディアに乗せて袋叩きにする。そうせざるを得ない事件があることを否定しないけれど,その果てに,どんな公明正大な者たちだけの楽園が生まれるのかを思うと,気持ちは沈む。

武谷三男は「特権」と「人権」を対比させることで,袋叩き化になだれ込みかねない社会に楔を打った。つぶやき上の袋叩きは,「特権」に異を唱えるものとは言い難いように感じる。それは,「正義」とか「科学」とか,つまり何らかの正しさを後ろ盾にして行なうものではないと思うのだ。自らの困難が伴っていないので形而上の話に陥る。このことに警鐘を鳴らしたのも武谷三男だったな。

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