信長

午後から出社。事務処理を済ませて,あとは企画書の準備に費やす。19時過ぎに事務所を出て,夕飯を買う。駅の改札で娘と会い,一緒に帰宅。

辻邦生の『安土往還記』を読み進めている。こんなテーマだったのかと改めて感じながらページを捲る。学生時代に,当時刊行されていた辻邦生の小説はほとんど読んだけれど,文体と構成・物語の巧みさを味わうばかりで,テーマに思いを巡らせることはなかった。いきおい『夏の砦』を頂点とする初期作品群と,『時の扉』『樹の声 海の声』,連作『ある生涯の七つの場所』の印象が強い。

このところ再読の醍醐味を感じるものの,読んできた本の再読を想像すると途方に暮れる。どの本にも,記憶に留めておきたくなる一節が埋もれているのだろう。50歳を過ぎると,それをするには十分な時間があるように思えなくなってくる。

冒頭からしばらく後,豪商の津田が浮かべた薄笑いから,敵対する二つの勢力のそれぞれに武器を売り渡していることを推察する場面に続いて,以下のような一節がある。

商取引をする以上,たとえそれが武器であろうと,より多い利潤に従って売買されるべきは当然であろう。それともこの堂々と見える男の魂胆のどこかに,それが武器であるからには,どちらか一方に組するべきだという考えがひそんでいるのであろうか。まるでフィレンツェの染物屋の娘が一人の男を思い通してでもいるかのように。それとも有利な一方に賭けるのがおそろしいのか。いずれにせよ首鼠両端の態度のなかには,笑いの動機は見当たらない。もしあるとすれば,彼が自分のそうした二股掛けを,何らかの意味で,悪いことと感じる,そうした通俗的な道徳感覚から生まれている。(中略)だが問題がここにある。

もしそれが背信であり,悪であると感じるなら,そのような自分に従うべきである。通俗的であろうとなかろうとあくまでこの道徳基準に従わねばならぬ。他方,もし両陣営に武器を売り込む決意をする以上,それをよしとする自分がいるはずである。いなければ,それをつくらなければならぬ。道は二つに一つしかない。

ところが津田は二股掛けを悪いと感じつつそれをあえてしているのだ。ということは,低い道徳感覚を抱いているにもかかわらず,それに従うこともしないし,また新しい道徳をつくりだそうともしないということだ。私は妻を殺害した。妻の情夫を刺し殺した。だが,その瞬間,私はそれを悪とする道徳基準をも打ち砕かねばならなかった。こうして私は新しい道徳基準をつくったが,こんどはそうした新しい基準を支え通すために,私は自分のすべてを賭けなければあらなかった。そこには人間の品位がかかっている。人間の意味がかかっている。私はそう感じた。私にとって,この支える意志のみが一つの生きる意味だったのである。

この導入が,その後,“尾張の大殿”=織田信長と見事に対比されている。そしてそれは,矢作俊彦が描き続けてきた物語とどこかでつながっている。つまり,アメリカン・ハードボイルド・ディテクティブ・ノベルではないハードボイルド小説だ。以前,高橋源一郎との対談のとき,矢作俊彦が織田信長が象のなかで夢見る小説を書きたいと語っていた。『安土往還記』を読みながら,そのことを思い出す。辻邦生の小説とつなげられたら,矢作俊彦は嫌な気分になるだろうか。

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