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土曜日の取材帰り,渋谷の古書サンエーに立ち寄った。仕事で使えそうな本があったので値付けをみると2,800円となっている。20年前,定価7,000円の本だから決して高くはない。ただ,何とかもう少し安く手に入らないだろうか。他の棚を眺めながら考え,結局,購入するのはやめにした。

日曜日の午後,事務所で仕事を少しだけ片づけていた。合間にAmazonで検索をかけてみたところ,昨日の本が1円で出ているのを見つけた。1円だ。送料別とはいえ,足しても300円はしない。検索してしまい,つらくなるのはこんなときだ。

結局,Amazonで注文し,今日,家に帰ると本は届いていた。注文してから24時間以内に届き,町の古本屋で2,800円の値がついている本が300円もしない。対価のほとんどは送料だ。

2000年前後,“価格破壊”を謳っては,実店舗をみずから破壊する所作があちこちにみられた。100円ショップが一般的になったのもその頃だったはず。星野博美が当時,エッセイのなかで,その品物が100円で売られる背景――そうせざるを得ない人の暮らしが当然含まれる――を想うと,100円ショップに入る気になれない,と記していた。そのことをときどき思い出す。

1円で売られた本の背景に,何かまっとうなものを思い描こうとしても,どうにも想像しようがない。Web上,1円から定価以上まで並ぶ値段のなかから,どれかを選ぶ。1人が10種類のものを並べているのではなく,10人が1種類のものを並べている。10人ではないな。サイト内の10店だ。私は10店1つひとつに入ることはない。量販店と個人経営の自転車店の両方でじかに見比べ,どちらの店で自転車を買うか悩むのとは,だから決定的に判断軸は異なる。

土曜日の取材では「安全保障と学術の関係」の話題があがり,防衛省の予算でのデュアルユース研究をどう考えるかなどの話し合いがあった。やりとりを聞きながら,つまりは防衛省が研究助成予算を立てることのないように、研究成果が軍事利用されないように、国民が国をきちんと縛ることをしなければ,似たような餌のぶら下げ方を手を変え品を変え,されるのだろうな,と思った。

その帰りに,渋谷の古書サンエーで,日本科学者会議編『科学者の権利と地位』(水曜社,1995)をみつけたのだ。でも,それと同じように「1円で買えないように店を縛ることがよい」とは,あたりまえだけれど言えない。言う気にもならない。(加筆予定)

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