ネオテニー

そ奴には実際に会ったことはない。だから会話をしたこともないし,目にするのは国会中継や記者会見くらいだ。

そ奴には妻がいて,こ奴にもじかに会ったことはない。今月の「文藝春秋」に掲載された石井妙子のルポでは,その行動原理がスピリチュアリズムへの傾倒にあるとまとめられているとのこと。なるほど,(武谷三男による特権/人権の意味で用いる)「特権」を得る座にあるものが,あたりまえのように「特権」を用いて,なお,さらにスピリチュアリズムに傾倒する。

P-MODELの「幼形成熟BOX」を思い出したのは,そしてこ奴らに辟易するのは,だから,まき散らされるネオテニー臭ゆえに違いない。二人揃って,結局のところ,行動原理の奥底にあるのはネオテニーだ。河合隼雄の書籍以外でほとんど目にすることがない「メサイヤ・コンプレックス」の定義に「ネオテニー」との親和性・共通性を付記したらどうだろう。そのことをどうこういうつもりはまったくない。ただ,その行動が私に少なからず影響を与えること,つまりこ奴らが国政の中枢にいることは容認できない。

一挙手一投足すべてが人を不快にさせることは,容易くできるものではないが,この二人がメディアに現れるだけで胃が痛くなってくる。夫のほうが話している様が映ろうなら,すぐさまメディアを閉じる。

そして,しばらく憐れむのだ。

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