洗脳

長崎の続きも,くるりのライブの続きも書き留めておきたいものの,その前に1つ。

会社帰りに近くの書店で「現代思想/特集=社会学の未来」を買った。一緒に手に入れたマンガを読みながら高田馬場で降りて,ブックオフに寄り3冊だけ本を買い家に戻る。見逃した「カルテット」第7話をWebで見た。テレビとほとんど変わらない画質だ。

寝る前に「現代思想」を少し読む。昼休みにWebで岸政彦のインタビューを斜め読みし,結果,出たばかりの「現代思想」に興味がわいた。毎号かなりの分量の原稿が掲載されているので,とりあえず「インタビュー桜井厚×西倉実季」からページを捲り始めた。

先のインタビューで触れられていた桜井の紹介ならびに一部批判は,埒外の私にとっては,もちろん初めて知ることばかりで,とても面白かった。面白かったのは,結果的に一部批判される桜井の考え方がじつに80年代のものだからだ。働きかける手前の右往左往せざるを得なさは,他人事とは思えない。後になってあの時代,武谷三男の特権と人権をきちんとつなげる取り組みがあれば,意味論も他者論も,もう少し違った動きをもったのではないだろうか,と感じたことがある。もちろん,武谷三男を取り上げるのは,少なからず軋む椅子のような空気だったことに間違いないのだけれど。

世代論でくくってしまうのは暴力的にすぎないものの,私より少し上の世代に属する宮台真司や大塚英志の発言や著書を20年近くの間,興味深く読みながら,彼らに共通する「主体性」と「洗脳」についてのとらえかたに,どこか違和感を覚えることがあった。「正しさ」とは異なる「モラル」のような何かだ。自己啓発セミナーや一部の新興宗教,カルトに通底する洗脳について,ゾーニングし,にもかかわらず主体的に選ばれたのならば自己責任の範疇であるとくくる。前提となるのは教育の重要性だ。「他人を操作する」そのこと自体への言及はほとんどない。しかし,悩ましいのは,「他人を操作」し得る技術がすでにあり,欲望をもつ人間といかに対峙するか,いや対峙せずに「ずらせ」というのでは,わかりはするけれど,どこか違う。

岸政彦は私より少し下の世代で,彼らの言説からは,主体性をかならずしも前提にしてものごとをとらえないという意味での「礼儀」があるようには感じる。けれども,「語りの場」と意味づけるそのこと自体に,無自覚な洗脳(他者を操作する技術)への接近はないだろうかと思うのだ。

フロイトが「無意識」に「意味」を与えて以後,とにかくありとあらゆるモノやコトに意味を付与するようになった。「意味なんてありませんよ」という言葉にさえ,何らかの意味が与えられる。何気ないしぐさにも意味を見出す。他者を操作する技術のはじまりは,意外とそのあたりにあるのかもしれない。そしてまた,その技術については,どれだけ慎重に取り扱っても慎重すぎることはない。また,あらかじめ定義しておく必要があるのではないだろうか。

何気ない会話が,研究者から過大に意味づけをされ,祭り上げられる(かのように語られる)。祭り上げられているその間,それは気分がよいだろう。ところが,祭り上げられた意味を,みずからの主体性と履き違えてしまう。結果,消費されておしまい,という言説をいくつも見てきた。

でも,意味なんてなくて,いいんじゃないか。と書いて,「僕らはみんな意味がない」と言い切ったケラは凄いなと思う。(これも続くような気がする)

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