操作


午後,おそろしい勢いで雨,風,雷,雹が降る。

19時過ぎに仕事を終え,家に戻る。夕飯をとりながら,娘が見たいという新番組「僕たちがやりました」を観た。途中,気分が悪くなった。

邦画「軽蔑」のなかで,悲惨な海辺の場面があるのだけれど,「僕たちがやりました」を観て,それを思い出し,何だかやりきれない気分になった。

原作もドラマも,それをトリガーに復讐劇を通して,自らに気づいていくそうだけれど,その前提が他者を操作する所作にあるのは百歩譲ったとしても容認できはしない。

みずからは手を染めずに,他者を恫喝して,競い(正確な表現ではないが)合わせる。社会に入ってキャリアを積む中,管理者にそのような側面を期待されることはあるだろう。もちろん,それとこれとは別だ。ただ,自らを特権的な立場においたまま手を汚さず,他者を操作することには,何一つ感情を昂らす要素がない。

他者の操作を前提にした思考実験は,結局,友人,親子,兄弟をそのなかに放り込んだときに,ではどうする? というような実にふざけた話につながりやすい。それを考えさせること自体が,他者の尊厳を傷つけているということへの無自覚さが許しがたいのだ。

古代中国の刑罰に,犯罪者と家族が向き合って,お互いの歯を抜き,額に打ち込むというものがあるらしい。昌己から聞いた記憶がある。つまり,法と刑罰を処する権力をもつ者のもとで,このような所作は行なわれてきたのであり,尊厳を傷つけるというのは,そういうことだ。

もしかしたら,そう考えること自体,時代遅れなのかもしれない。だとしたら,時代遅れで結構なのだが。

その後,『海から来たサムライ』第1部の最後のところを読んだ。何度も読み返したにもかかわらず,美しい物語だと改めて感じた。ここには自ら手を汚さずに他者を操作しようとする卑しさが何一つない。「美しい」という表現が手垢にまみれていないことを懐かしく思うのは,単に歳をとったからなのだろう。

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