此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド

1987年の冬。P-MODELのライブ会場でブルーとスミ2色刷りのチラシを渡された。渋谷ラ・ママのオープン5周年だったか,そのくらいを記念した連続イベントの案内だった。そのシリーズ初っ端に登場するのが平沢進ユニットと紹介されている。

自分でチケットを買いにいくのは面倒だったので(わざわざラ・ママまで行くなんて),買ってきてくれないかと伸浩に声をかけた。当時,彼は千葉の八柱に住んでいた。「渋谷といえば,君に頼むしかないじゃないか。昌己も行くというので2枚頼むよ」。前年の夏,田島が原のフリーコンサートには彼も誘ったのだから,「一緒に行こうや」と声をかけて3枚頼むのが普通だったかもしれない。そのあたりの経緯はよく覚えていない。

連休真っ只中の5月1日。昌己とどこで落ち合ったのだろう。ラ・ママの入口だったかもしれない。開場後,フロアに入った。ご存知のとおり,ラ・ママのフロアには何本もの柱がある。入口を背にするとステージは右手,左奥がトイレだ。メインが始まるまでは入口のそばで静かにしていた。

オープニングアクトは名前も覚えていないニューウェイヴバンドだったはずだ。ただ,ネット時代にいくつかのサイト,書き込みをチェックしたものの,このバンドが出たという書き込みをいまだ見たことがない。音は覚えていないが,ワイルド7のオヤブンのような姿でバイオリンを弾くメンバーがいたことだけは忘れられない。ヴァンパイア!,幻覚マイムが出た。幻覚マイムはトリオ編成で,変拍子のブレイクが決まってなかなか恰好よかった。ヴァンパイア!は音抜けはよいのだけれど……という印象。

平沢ユニットが始まる前に,フロア奥へと移動した。

ラ・ママはステージ下手からステージに上がれるようなつくりではない。ミュージシャンはトイレのあたりにある通路からフロアを通ってステージに上がるのだ。まるで新日の若手のようにステージへの花道をつくる中野照夫と高橋芳一の姿を思い出す。

「KAMEARI POP」を出囃子に平沢がステージにあがる。キーボードを弾きながら歌が終わるとメンバーを紹介する。バンド名は「平沢ユニット」ではなく,「此岸のパラダイス亀有永遠のワンパターンバンド」という長ったらしいものになっていた。広いとはいえないフロアはこの時点で人で溢れかえっている。

田井中さん,三浦,秋山,ケラが次々にステージに上がり,リズムボックスの音が鳴るやいなや,客がステージ前に殺到する。セットリストは以下の通り。

  1. KAMEARI POP
  2. 美術館で会った人だろ
  3. ヘルスエンジェル
  4. ワンウェイラブ
  5. 青十字
  6. 異邦人
  7. いまわし電話
  8. 子供たちどうも
  9. ダイジョブ

ケラが「異邦人」の間奏でパントマイムのような動きをしたことは覚えている。

それよりも何も,途中からフロアの酸素濃度がどんどん薄くなっていくのが分かった。後半,ステージ上の平沢はかなりしんどそうだった。ステージの方が先に酸欠に陥っていたのだろう。声を出そうにもでなくなる場面さえあったのだ。MCで思わず「酸素を吸うな!」と怒鳴っていたような気がする(追記:アップされていた音源を確認したところ,そんなふうに言ってはいなかった。ただ,ステージもフロアも酸欠に近かったと思う)。

いつの間には昌己はフロア後ろの壁に背持たれてしゃがみこんでいた。

それから20年近くを経た後,某巨大掲示板を通じて,マンドレイクからP-MODEL,平沢ソロに至るブートレッグをアップする方がいた。解凍後の音源にはあまり興味がなかったものの,自分たちが出かけたライブの音源はとても興味があった。

当時,録音しようと思えばできたにもかかわらず,われわれの誰一人として1988年までのP-MODELのライブを録音した奴はいなかった。ライブが始まる少し前,壁や手すりの段差において回しておけばよいのだけれど,そんなことに気づかず,録音するからには手元に抱えていなければならないと思い込んでいた。P-MODELのライブに出かけて,そんな鹿爪らしいことなんかしていられないじゃないか。

知恵に乏しいわれわれが,ようやく録音方法に気づいたのは1989年,初めての平沢ソロライブでのことだった。渋谷クアトロで録音したそのテープは,にもかかわらずほとんど聴かなかった。この数か月で,平沢はP-MODELとはまったく別のライブを始めた。それが正直,面白みに欠けていた。フロアは落ち着き,演奏も安定している。で,結局つまらない。

アップされたデータの1つに,この日のラ・ママでの音源があった。こっそり落として聴いてみた。平沢のメンバー紹介が終わったところで,会場がざわつくなか,かすかに聴こえてくるのは私と昌己の会話だった。

その驚きを何度か記した。この日のライブについて書いたのも初めてではないはずだ。昨夜,Youtubeに同じ音源がアップされているのを見つけ,思わず記してしまった。

付記

さらにしばらく後,昌己と飲みながら当時の話をしていたとき,「あのとき,ラ・ママを出たところでチラシをもらったじゃないか」と記憶が蘇った。渡されたチラシはTMネットワークのライブ告知のもので,後で思うとメンバーの木根さん自らが配っていたのだ。ラ・ママでギュウギュウにつめてもせいぜい300人程度の客にチラシを配る努力に,われわれに足りなかったものはこれだったのだと30年経ってから気づいた。

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