改訂

雨が一日中降り続く。おかげで朝は調子悪く,遅れて出社。

夕方から打ち合わせのため駅前まで。結局,19時近くまでかかってしまい,そのまま直帰する。

高田馬場の芳林堂書店で結城昌治『公園には誰もいない・密室の惨劇 』(P+D BOOKS)を捲る。驚いたことに1974年の講談社文庫版を底本にしている。高橋弘希『指の骨』と一緒に買ってしまった。4階のEW Port Cafeで20時まで休憩。娘もときどき利用しているらしいこのカフェは,すわり心地のよい椅子がなんといっても特徴で,おおむね空いているので,利用数回数が増えてきた。『闇の中の系図』を読み進める。

結城昌治の「真木シリーズ」3作は作者が晩年,時代設定を後ろ倒しするために,登場人物の背景などについて大幅に手を入れている。池上冬樹が『ヒーローたちの荒野』(だったと思う)で,そのことの非を辛辣に評していたはずだ。

講談社文庫で1974年版,1991年版のいずれも読み,確かに1991年版はツルっとした感じがした。そのあたり1991年版の解説を書いた原尞はまったく触れていない。ゲラを渡されていなかったのかもしれないが。

で,今回のP+D BOOKSは1974年版を底本にしていて,それはとてもうれしいのだけれど,では,作者自身で改訂した1991年版をどう位置づければよいのだろうか。同じようなことがマンガにも起こっていて,連載時の原稿そのままを売りにする企画をよく目にする。たとえば大友克洋などは単行本にまとめるとき,連載原稿を大幅に加筆・修正する。加筆・修正前の原稿を改めて出版するのはどうなのだろう。

石森章太郎のShotaro Worldが「ディレクターズカット」と称されて刊行されて以来,悩ましく感じるのは,この作家が(もしくはシリーズ企画者が),単行本化の際に手を入れた箇所を連載時に戻してしまったからだ。たとえば,サイボーグ009の第1巻で,ギルモア博士が009の機能を説明する一葉の図がある。連載のときの絵は手書きっぽいタッチだったものが,秋田書店のサンデーコミックスにまとめられた際に,地下帝国ヨミ編あたりのタッチで描かれた図に差し替えられている。

それ以外にも単行本化にあたり,削除されたページや組み替えられたコマが,ディレクターズカットの名のもとにいくつも復活した(元に戻された)。

Shotaro Worldが刊行された当時は,連載の図が目新しく喜んだものの,その後,刊行された単行本やコンビニ本の(たぶん)すべてで連載時の図が用いられているのを目にすると考えてしまうのだ。絵のクオリティからすると,サンデーコミックス版のほうがよい(あくまで主観的に)にもかかわらず,「ディレクターズカット」と称されたバージョンが刊行されて以後は,そちらが正当なものだとされてしまうのか,と。

それが,ぎりぎり石森章太郎が生きていたときの判断だとすると,読者は従わなければならないのか。

それで思い出したのは,サイボーグ009はサンデーコミック第11巻以降,009の髪と戦闘スーツにトーンが貼り込まれておらず,週刊少年サンデーやアニメディア連載に至るまでそれは続いた。ところが小学館文庫でまとめられた「海底ピラミッド編」までにはトーンが貼り込まれている(データ処理かもしれないが)。

009のトーンの問題については,週刊少年キングでの連載や別冊での読み切りのときは一部,トーンが貼られていない作もあって,どちらがただしいかと説明をつけづらい。結局,Shotaro Worldで週刊少年サンデー連載の前まで(たぶん第1期)はトーンが貼られた絵で揃えられた。

その昔,週刊少年サンデー連載あたりの頃まで,私は自分で鉛筆を滑らせて,009の髪とすべてのメンバーの戦闘スーツに薄くスミをつけていた。昔も今も週刊漫画雑誌の単色の色は青とか赤とかが多く,輪郭線・べた色と鉛筆で2色になってしまったものの,そうでもしなければ当時はおさまりがつかなかったのだ。

一読者として,ありうるべきサイボーグ009の絵があって,身銭を切って手に入れたマンガについては,みずから手を加える。作者と読者の間に,正当性についてギャップが生まれると,このような状況に陥る。

結城昌治の真木シリーズの手入れについても,そのギャップが埋められないまま,作者が退場してしまった故の悲劇なのだと思う。にもかかわらず,今回,1974年版を底本に新しい版が刊行された。読者にとっては喜ばしいはずが,でも,作者が健在であったならば,この版での刊行に頷首しただろうかと考えてしまうのだ。

一方では1974年版でよいのかと悩み,もう一方では「ディレクターズカット」版が果たして最終版なのかと悩む。おかしな所作だとは承知の上で。

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