水俣

旧満州で生まれた父親が戦後,親に連れられて日本の定住先になったのは熊本県天草の下島だった。戦中,満鉄のサラリーマンだった祖父が送金して,すでに家は建っていたと聞いたことがある。子どもの頃,年に一,二度は天草に行った。

寝台電車だとみずほ,飛行機,一度は神戸からカーフェリーで別府に降り,阿蘇を越えて車で行ったこともあった。熊本市内から本渡までバスで2時間近く,父の実家まではそこからさらにボンネットバスで数時間かかった記憶がある。魚はふんだんにとれるものの,まず,実家の近所に小売店がまったくなかったのには難渋した。加工食品やお菓子,調味料は週に数回,巡回でやってくるスーパーがたよりだった。1970年代の初め,夏休みの一日,二日はたのしかったけれど,それから先,祖母がお寺の用事で本渡まで行くのについて,帰りのバスを待つ間に本屋やおもちゃ屋を覗きながら買い物するときくらいしかたのしみはなかった。

帰りは牛深まで出て高速船で水俣に渡った。親戚の家に挨拶をして,そこから電車で熊本まで出るのだ。

ある年の正月に父と実家に帰った。母親と弟が一緒にいた記憶がないので,妹が生まれる前後のことだったはずだ。牛深で船に乗る前に父親とどこかに出かけた。記憶では急な坂を登った左手にある教会に向かったことになっているものの,地図を捲っても教会は見当たらない。お寺に出かけたのだろう。その帰り,坂を降りたところにある古い食堂に入った。寒いので鍋焼きうどんを頼んだが,いなかの食堂でその手の注文するにはそれなりの覚悟がいる。なかなか出てこないのだ。

テレビを見る父親を横目にテーブルの下の放られた「週刊少年マガジン」を取り出してページを捲った。私はそこで初めて永井豪の「バイオレンスジャック」を見た。子どもの目にもうまいとは言えない,けれどもどうしたわけか迫力だけはあるその漫画に驚いた。

かなり経ってから鍋焼きうどんができあがったので,私と父親は口のなかをやけどしながら勢いよく食べて,船着き場に向かった。

高速船は水の上に浮いている感覚よりも,水面にぶつかっていく感覚のほうが強い乗り物だ。運よく波にぶつかり続けられると,船酔いは非道くないが,スピードが乗らずに波に揺られてしまうと,途端に気持ち悪くなる。

その日は,酔うこともなく水俣に着いた。(続きます)

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