水俣

買ったまま読んでいなかった渡辺京二『死民と日常―私の水俣病闘争』(弦書房)のページを捲り始めた。巻頭から順番に1971,72年くらいに発表された論考が載っている。後半には平成に入ってからの論考がおさめられているようだけれど,まだそこまでは辿りついていない。

読み進めながら,1980年代後半に吉田司の『下下戦記』が単行本にまとまって後,さらに旧満州国とチッソのつながりについての複数のノンフィクションが出て後,70年代の言説がもっていた論拠は“そのうちの1つ”になったのだなあとため息を吐いた。

渡辺京二自身,大連に動員された経験があるならば,70年代であっても水俣,天草,九州と中国大陸の関係について,もう少し視野を広げることは可能だったのではないだろうか。確かに水俣病の被害者の多くは漁業を生業にしていた方とその家族であった。しかし,戦前の家長制のもと,二男,三男に生まれたものが食い扶持をもとめて渡った中国大陸で(東北とともに九州からは多くの「長男でない子ども」が渡った),40年近くにわたり続いた南満州鉄道に関わった者たちは,その地で二世,三世を産み育てた。40年には,取り返しのつかない,それくらいのスパンがある。そうした家族は戦後,国内に引揚げてきた。引揚者の視点から水俣病を考えることは大切ではないかと思う。

祖父は満州で育ち,満鉄に就職した。私の義父は釜山から鹿児島に引揚げてきた。父親の生地で辛酸をなめた義父がそれと引き換えに手にした生活能力はさておき,祖父はまったくのサラリーマンであった。農民はもちろんのこと漁民としての心性など何一つ持ち合わせてはいなかった。家族はたまったものではなかったようだけれど,祖父は戦後,一度も定職につかなかったことを何度か聞かされた。

数年前,父の葬儀のときに集まった叔父・叔母と話してわかったことは,中国大陸でサラリーマンだった祖父には大陸で,ただの一回も農業の体験がなかったということだ。だから天草で家とともに裏山一帯を得たものの,そこにみかんが生っていても,それで生計を立てようとか,田んぼや畑をつくって生活していこうとか,まったく考えなかったのだ。「大陸で農家の経験なかったのかあ,なるほどなあ」。叔父・叔母は祖父の死後,40年以上を経て,ようやく戦後の祖父の暮らし方(のある部分)に意味づけすることができた。

戦前の植民地政策により,サラリーマンとして生活する層が増え,戦後,彼らとその家族は日本に引き上げてきた。彼らはサラリーマンとしての生活体験しかもたないまま,生家を頼らざるを得なかった。出て行かざるを得なかった生家に戻らざるを得なかったのだから,そこで何が起きたか,少し考えてみたくなる。

その年,船底を叩く波の音のなか,少しずつ近づいてくる水俣の町は,工場の煙でくすみ灰色だった。(続きます)

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