ふつう

久しぶりに新刊,といっても文庫本を買った。辻邦生の『背教者ユリアヌス』(中公文庫)と絲山秋子の『忘れられたワルツ』(河出文庫)。どちらも単行本を持っている。文庫が刊行されたばかりなので,単行本を読み直すのではなく,文庫本で読み直したくなった。

土曜日の検討会へと向かう電車のなかで,『忘れられたワルツ』を読み終えた。「ふつう」をめぐる短編集だ。東日本大震災後の「ふつう」。ゲシュタルトとネオテニー。絲山が書く小説のモチーフの1つである何もしない神。一度読んで,メモをとりながら再びページを捲った。

冒頭,「恋愛雑用論」の後半,東日本大震災後の時間軸のなかでのモノローグ。

 ……東京に行った友達が電話で一方的に喋った後あんたはのんきでいいよねと吐き捨てた。一方で両親や姉は私よりもっとのんきに見えた。実家とこっちと両方被害を受けることはないから何かあっても大丈夫な方にいけばいいと笑うのだった。
 私は友達に違和感を覚えた。家族にも違和感を覚えた。テレビにも政治家にも違和感を覚えた。でもそのうち強い気持ちは薄まってできることだけをすればいいと思うようになった。それが正しくないことも勉強不足なこともわかっている。でもどこに,ひとがふつうに生きていくことについて正しく話せるひとがいるというのか。

「すべての事実は真実の敵でござる」と宣言したドン・キホーテであれば,ふつうについて正しく話せるかもしれない。でも,それはふつうでない人が言うから正しいのであって,「ふつう」と「正しさ」は両立しづらい。

矢作俊彦の短編「キューカンバ・サンドウィッチ」を思い出した。登場人物の「ふつう」に,突如,車を持っておらず,ときどき下駄ばきでやってくるようなクリスチャンが現れた後,登場人物たちの「ふつう」はどう変化し,また変化しなかったかを鮮やかに切り取る。

登場人物の「ふつう」が他者の「ふつう」と出会ったときの変化が物語を進める動機づけとなる。矢作はこの「モラルの移行」こそがハードボイルドだと言い切った。『忘れられたワルツ』に収められた各編には東日本大震災後のモラルの行く先が描かれている。これは,ある種のハードボイルド小説集として読むことも可能だろう。

「強震モニタ走馬燈」の主人公と強震モニタを日々観察する友人の会話。

 「じゃあ,地震の予想するの?」
……
 「予想なんてそんなことしませんよ。できません誰にも」
 「じゃあなんで」
 「いっちゃん,三年生のときヒヤシンスの水栽培やりましたよね」
 「小学校だよね?」
 「ええ,それで毎日見てるけど別に花が何月何日に咲くなんて予想しなかったでしょう? いつか咲くけどいつ咲くかわからない,そんなもんでしょう?……咲いちゃうとヒヤシンスはつまんなかったんです……もし今大きいのが来たら,いっちゃんがここに来たことだって全部意味が変わるんですよ。今日じゃなくても,明日でも,明後日でも,全部意味って変わります……だからな,毎日が震災前なんですよ」
 「そんなに地震のことばっかり考えててやんならない? ふつうだったら,もうしばらく忘れてたいよ」
 「もうふつうなんてなくなっちゃったんです。いっちゃんと一緒に学校行ってたときのふつうと今のふつう,違うでしょ。ふつうがあったのはせいぜい十年くらい前までじゃないですか。今現在,五年後のふつうなんて想像できますか? できないでしょ」

母親が亡くなる前の感覚を思い出す。ベッドサイドに集まった家族は,いつの間にか“目的”がすり替わっていることに気づかない。それは,ふつうに時間が来て,仮眠用の部屋に戻る所作を誰もとらなかった違和感とともに。

小学校時代の友人の1人が話題になった場面。

「……フェイスブックで探してみたら?」
「だって子供の頃と違うでしょ。いいよ,思い出してみる。寝ちゃうかもしれないけれど」

……それはダメ男の走馬燈だった。……動機が不純だからダメなんだ。……いまの六歳上の恋人だけは走馬燈に入れるまい,と井出は思った。この駄馬の群れにカテゴライズしてしまったら,思い出すことはあっても,もう新しく話すことなんてなにもなくなってしまう気がした。もう少しだけ,と井出は思った。もう少しだけ大事にしてみた。

50歳前後,学生時代の友人たちと再び年に数回会うようになったとき,話題が「思い出すこと」しかなかったあの雰囲気を思い出す。でも,いまや「思い出すこと」なんてほとんど出てこない。動機なんてないからなんだろうか。(続きます)

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