ふつう

「葬式とオーロラ」は「本物のありかを揺さぶる」(北山修が昔,ほんものとにせものの間にニホンセイノモノがあると記したように)ので,別途。

「ニイタカヤマノボレ」「NR」を読むと,絲山の小説だ,これはと納得してしまう。と書きながら,あたりまえだけれど,ここの収められた短編はすべて小説であって論文ではない。小説としておもしろいことを前提にしたうえで,部分的にコピーして,そこから喚起された記憶を書き連ねている。小説をただ切り刻んでいるだけかもしれず,こういう引用のしかたがよいのか覚束ない。

最初の震災のあと,ひとびとの言うことがわかりやすくなった。とてもクリアになった。白と黒,0%と100%で物事を考えるのはわたしの悪い癖だといつも注意されていたのに,みんなもそうなってしまったようだった。サンセイとハンタイ,イイとワルイになった。あまりにも事実がわかりにくいから感情的になったのだった。ひとが感情的になっているとき,わたしは真っ白になった脳みそを抱えて戸惑う。ひとの感情がわからないから,共感しろと言われるのが一番困る。冗談がわからないし,嘘かもしれないと思ったら相槌を打つこともできない。

わたしは作り話がきらいだ。誇張もきらいだ。鉄塔が好きなのは誰もロマンチックだなんて言わないからだった。鉄塔にあるのは事実だけだった。そしてわたしの拠り所は,いくら人から屁理屈だと言われても,事実だけだった。

宮澤賢治の「われはこれ塔建つるもの」を思い出す。でもあの塔は真実であって,事実じゃない。真実から「ふつう」を語ることができても,事実から「ふつう」を語ることはできまい。

開き直ってからひねくれかたがひどくなった,と鯖江君は言う。
なにが?
おまえのことだよ
かわってないよ
まえは素直だったよ
大人になったからだよ
と言うと,ふつうそんなことはないと鯖江君は言った。
ごめんわたしふつうがわからないの。フツウとミンナはわからない
努力しないからわからないんだよ
理由もなしに努力なんてできないよ

いや,世の中には「努力できる才能」というものがあってだね……。

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