汚れた手

京都府舞鶴市での大相撲春巡業で多々見良三市長(67)が土俵上で倒れた際,救命措置の女性が土俵から下りるよう場内放送で促された問題

報道を見聞きしながら,19世紀半ば,ウィーン総合病院における医師・ゼンメルワイスの取り組みを思い出してしまった。以下,『外科の夜明け』(トールワルド,講談社文庫,1971)より。

今日では,ゼンメルワイスが“接触伝染”の法則に気付いた最初の人間であり,その法則にうち勝つ道を,最初に発見した人間であることを,万人が異論なく認めている。しかし,彼の発見の顛末は,苦渋と悲劇とに満ちているのである。

ゼンメルワイスが勤務につき始めた当初は,産褥熱は出産に伴う不幸な結果ではあるが,必ずしも不可避な時ばかりではないという程度の,医学知識しかなかった。……端的に言えば当時の産科学は,手術創の発熱の原因について何一つ分からなかったように,産褥熱についても,全く分かっていなかったのである。

1840年代の,ウィーン総合病院の分娩室は,産褥熱の温床であった。ゼンメルワイスが就任した月には,彼の担当した病室で,208人中36人以上の母親が死亡した。産科の患者の大部分は“日陰の妊娠”で,その多くは“教会の祝福によって結ばれず”に母親になった人たちだった。当時は,自尊心のある婦人は自宅で分娩した。

ウィーン総合病院の産科は,特に二科に分かれていた。ゼンメルワイスが勤務した第一産科は,産科技術の訓練を医学生に行なうためのものだった。学生は第二産科には行かなかった。ここでは助産婦が訓練されていた。第一産科では,患者の10パーセント以上が産褥熱で死亡するのに対し,第二産科では,この恐ろしい病気によって死亡する患者は1パーセント以下だということに,ゼンメルワイスは気がついた。(加筆予定)

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Top