映画 泳ぎすぎた夜

連休中の仕事を前に映画2本に展覧会をはしごする。10時過ぎに家を出て渋谷。シアター・イメージフォーラムまで行き,11時からの回で「泳ぎすぎた夜」(ダミアン・マニベル・五十嵐耕平監督),午後から「港町」(相田和弘監督)。昼は青山通り沿いのラーメンを食べ,中村書店を覘く。終わってから井の頭線に乗り神泉で降りる。少し道に迷い,松濤美術館に。家内と待ち合わせ,チャペック兄弟と子どもの世界展。終わってから東急本店に娘と待ち合わせ,夕飯をとって,ブックオフに寄る。

「泳ぎすぎた夜」(ダミアン・マニベル・五十嵐耕平監督)

最初,「港町」を見に行こうと思い,サイトをアクセスしたところ,午前と午後に1回ずつ「泳ぎすぎた夜」が上映されていることを知った。数日前,SNSでの投稿を目にし,気になっていたのだ。午前中に「泳ぎすぎた夜」,午後から「港町」を見に行くことに決め,ネットでチケットを手に入れた。

まだ日が昇らない明け方の暗さ。雪国,道路標識がインサートされ弘前だとわかる。家の食堂で父親が煙草を一服。車で仕事に出かける。寒いのか頭にタオルをひっかけた男の子が階段を降りる。トイレに入り,布団に入るが寝つけない。デジカメで何枚か撮影し,クレヨンで絵を描く。姉の布団に入ろうとするものの,まだ眠たい姉は相手にしない。父親が魚市場で働いていることが示される。

日が昇ってくる。男の子は眠たいからか,うとうとしたまま朝食をとらず,姉に着替えを手伝ってもらい学校に出かける。校舎に続く雪道を姉の後からついていく男の子。教室に一度向かい,ふたたび道に戻り,雪の積もった垣根を乗り越え,雪野原に向かう。左手の手袋を残したまま。

とにかくこの男の子が人とかかわらない。かかわりになるかもしれない人がそこにいないのだ。誰ともまじわらない冒険というストーリーがこの映画のオリジナリティの1つだ。フランス映画,日本の映画でさえ,子どもの冒険譚には人との接点が描かれてきた。子どもと大人が接することで物語は動き,観るものに甘美な子ども時代をよみがえらせてきた。しかし,「泳ぎすぎた夜」が描くような文字通り一人ぼっちの冒険のさびしさの記憶も,どこかにしまわれている気がする。

セリフがひとつもないまま淡々と映画はすすむ。そのままラストシーンまで一気に突き進み,最後の最後で,ファーストシーンと重なる。男の子のこの一日は,永遠のなかで更新されることなく留められる。(加筆予定)

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