オカルト化する日本の教育

このところ,原田実『オカルト化する日本の教育』(ちくま新書)を鞄に入れ,読み進めている。一度,読み終えた後,最初から読み返す。

内輪でフィクションをたのしんでいるうちは害が少ないものの,得てしてその手の(個人ではなく)集団は,関心のない他者を操作して絡め取るようになる。虚構(うそ,でたらめ)を元手にかりそめの名誉を,現実の金銭を得るのだから,一般的にその手の輩は「詐欺師」と称される者だ。

「詐欺師」はそれでも騙した後,その場から去っていくならば被害は少ない。本書で露わにされたような詐欺師は,いつまでも1つの場所に居座り続けようとするからたちが悪い。

河合隼雄の『コンプレックス』(岩波新書)以前の文献ではみたことがない「メサイヤ・コンプレックス」なる語と考え方,どういう経緯で河合隼雄が紹介(もしくは創造)したのか,機会があれば尋ねたかった。宗教や自己啓発セミナーに関係する者はいうにおよばず,カウンセラーでさえ,人を救うような立場にたつこと,他者よりも上の立場にたつこと,他者を操作することに気持ちよさを感じてしまう者が一定数いるであろうことは80年代から指摘されてきた。とりあえず,本サイトの“REFERENCES”にその抜書きを置いてある。いまや政官財はもとより,初手からその手の詐欺のフィールドであった地域まで,まるでメサイヤ・コンプレックスだらけという様相を呈しているんじゃないか。とりあえず自戒をこめて。

80年代というのは,他者に関係してしまう手続きの前で理由探しに四苦八苦しながら,一方で他者を操作する方法が世の中を闊歩していた実にバランスの悪い時期だった。

江戸しぐさや親学を唾棄したくなるのは,その歴史的エビデンスの虚構さや,ご都合主義の解釈よりも,まず,他者を操作する方便として考えたに違いないとしか感じられないからだ。

この手の輩がそろいもそろって,自分に妙な芸名というのかペンネームを付けてしまうのは,語られていることの虚構性に自分が堪えられないからなのだろう。

『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』のいずれもが,他者操作の欲望を描いたフィクションなのはどうしたわけなのだろうと,昔,考えたことがある。たとえそれが子子孫孫であったとしても,やっていいこととよくないことがあるというものだ。百歩譲って,奇書扱いされている両作はまだしも,真顔で「コインロッカーベビーに江戸しぐさを」って,結局その程度のものだということを自ら露呈させているようなものだ。

80年代前後,マンザイブーム華やかりし頃,ホンネ/タテマエと囃し立てられたネタを見聞きしながら,こんなふうに言われたら後が面倒くさいな,と感じたことを思い出す。それはフロイトが「無意識」に意味づけしたようなもので,全部が「意味」として絡め取られてしまう面倒臭さだ。退路というか逃げ場がない窮屈さ。そしてその後,無意識の共感ではなく,他者操作による洗脳が一気に幅をきかせてきたのだ。

もはや,その後の時間のほうが私にとっては長くなってしまった。

『オカルト化する日本の教育』は数か所,論旨に無理を感じるが,とても面白い。著者が書いたほかの本も読んでみることにする。

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