石森章太郎

徳間書店が出たイラストアルバムのインタビューだったと思う。石森章太郎はみずから「スポ根」ものは苦手だと語っていた記憶がある。「努力」を描きたくなかったのだろう。それが手塚治虫との決定的な違いだ。石森章太郎は,たとえば『火の鳥 鳳凰編』のようなマンガは描かないし,もしかすると描けないかもしれない。石森章太郎が努力を描こうとすると,落語っぽさに傾く。私が読んだ石森章太郎の作品で努力っぽさが表現されているものは,時代モノで,努力をペーソスに置き換えているものがほとんどだ。

練習や訓練を通して成長していくなどという作品は,膨大な量のなかでほとんどない。ほぼ原作がある『宮本武蔵』や『佐武と市』『さんだだらぼっち』のいくつかのエピソード,『イナズマン』や『ギルガメッシュ』で描かれる成長は,訓練や努力の賜物では決してない。

石森章太郎のマンガが好きになった理由をたとえば3つ挙げるとすると,努力が出てこないという点は実のところ,かなり大きな要因だ。石森章太郎自身,努力家ではなくエピキュリアンとしての印象が強いあたり,私の生き方に対する影響力も少なくない。

いまでも1970年前後数年に発表された石森章太郎のマンガに魅力を感じる。描線の魅力は増し,コマ割りは変幻自在にその可能性を示す。少し天地に伸びた登場人物のフォルム,目の描き方にもこの時期独特の色気がある。

ところが,サンコミックスで『青い目の少女』を読み直したあたりから,『サイボーグ009』を描く前の作品の面白さ,というか凄さにようやく気づいた。それはコマの移動とは別のレイヤー(いまだからこういう言葉を使うことができる)を被せて人物を踊らせたり,見開きで上下に走馬燈のような動きを描いた間に,文章だけで話を進行させたり,いったいこのようなページを創造する感覚はいったいどこからくるのだろうか,ほとんど茫然としてしまった。

連載ものでは,そのときどきの忙しさも勘案してなのだろうけれど,急にコマが多くなって展開したかと思えば,4×3の12コマにぎっしりとネームが詰められたり,同じマンガとは思えないくらいにテンポが変わる。

フォルムや目は70年前後の色っぽさが好きだけれど,やりたい放題という感じは『サイボーグ009』連載前のほうが強烈だ。

と書きながら,今年の24時間テレビで石森章太郎の物語がドラマとして放送された。努力についてよりも,ああ,石森章太郎は喜怒哀楽を描いたのだなあ,ということはわかった。

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