P-MODEL

下版と企画の依頼が重なる。1つひとつ片づけるだけ。夕飯をとって家に帰る途中,久しぶりに飯田橋のブックオフに寄る。『一本包丁満太郎』(コンビニ本版)が何冊が出ていたので,2冊だけ買う。読み終えてから,持っていたことに気づく。

ツイッター経由で,90年代なかばまでのP-MODEL・平沢進の歌詞を分析(というのかな?)しているサイト・ブログにたどり着いた。途中,これは自分が書いたのではないか,と思うくらい,似たとらえかたをしている箇所があった。作品に対しての距離感も,わかるなあと何度か頷いた。たぶん1980年代にP-MODELの音楽とライブを体験したファンには,どこか共通する感覚が残っているのだろう。

ただ,ユング由来の集合的無意識的表現については,単純に「コミュニケーションの放棄」だったのだろうと,この10数年で考えを新たにした。「列車」で思わず吐露した「一気に飛ぶように 本気で愛して」と「Goes on Ghost」の振り幅からさえも降りてしまったかのようなそれは美しく映った。「フローズン・ビーチ」なんて自分の結婚式の二次会で,何か歌えといわれて思わず口ずさんでしまったくらい,ある時期まで影響を受けたものだ。その歌唱は司会に「何だかよくわまりませんが」の一言で封をされてしまった。そのときに私が感じた,ある種の“区別”について,その後,あれこれ考えた。

集合的無意識を手法にしてしまうと,初手から,他者を,操作しうる対象ととらえてしまいかねない危険性を孕む。ツボを押せば反射する,という至極シンプルなシステムだ。ひとたびあやしげな“善意”を出発点にしてしまえば,とりかえしのつかない悲劇を起こしてしまうことは目に見えている。もちろんP-MODELや平沢ソロで,善意を出発点にしたことはあるまい。一方で,動員されたがっているファンにとっては,そのアイコンが善意に彩られて見えたとしても不思議ではない。

そうでなくても,他者との差異化でアイデンティティを浮き上がらせようとしかねない同時代に,少なからずファンはP-MODELに動員されたがっていたのではないかと思う。

1st,2ndで「コミュニケーションを模索」し,3rd,4th,5thで「天秤から降り」,6th,7th,8thで「コミュニケーションを放棄」してしまう。作品から見ると,そんな感じだ。

ところが,ライブでは少し様相が違った。凍結になだれ込む前の数年,フロアはP-MODELがコントロールし得る場ではなくなった。もしかするとP-MODELは,フロアをコントロールするだけの技術(演奏能力とは違った意味での)を手にしていなかったのかもしれない。大塚英志よろしく,選民思想は選民と,選民になりたいものとの間でつくられていく。そうした下地(?)をもつファンの餌食に,P-MODELがなってしまったのではないか。それも秀逸なライブパフォーマンスを通して。『金枝篇』に描かれたように,ひとたび王とされたP-MODELは早晩,潰えなければならない運命であったと,ここは言ってしまおう。

平沢のソロから解凍期以降のP-MODELのテーマ(の1つ)は,いかにフロアをコントロールするかにあったのではないかと思う。結果として,フロアは解凍前と比べると悲しいことに見事にコントロールされてしまい,それとともに1988年までのライブにあった面白さを,それ以後,まったく呼び起こすことができなくなってしまった。『音廃本』のなか,ことぶき光のインタビューでもニュアンスは異なるけれど,そうした変化について語られている。

コントロール可能なものと偶然を武器に,他者の介入をそぎ落とし,生き延び続ける王のその後を否定するつもりはない。いまだ「死」をモチーフにすることがない王は,でもどうなのだろう。「死んであの世で会いましょう」は「生きてこの世で会いましょう」と交換可能だと思った時点で,平沢進は死に向き合うことがなくなったのかもしれない。かなり極論だけれど,そんなふうに感じるのだ。

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