距離

1か月くらい前,ゲンロンカフェで斎藤環×平沢進のトークライブが開催されると知った。チケットはとれそうだなと感じたので,とりあえず申し込んだ。申し込み結果が発表された2月1日,連絡が入っているだろうと思ったら入っていた。で,昨日,受付で座席のくじ引きがあり,一番上を引いたら,1列目の中央,平沢の真ん前だった。さすがにまずいと思い,後ろの方と席を替わってもらった。 “admirable restraint”。これは「さすがにまずい」と訳してもよさそうだな。

齋藤環による話の振り方が,凍結前ファンにとっては(も)勘所を押さえたものばかりで,3時間の長丁場を,ほとんど笑いながら過ごしてしまった。ばかばかしさを感じる笑いだ。P-MODELのある種の笑いを思い出した。

平沢からしばしば「距離」という単語が出たのは面白かった。「距離」かあ。

アルバム“Perspective”のオビに「時間 距離 空間」とコピーが刷ってあった気がする(検索したところ見当たらなかったけれど)。「星の王子さま」からの援用が頻出するこのアルバムの「距離」とは物理的な距離ではあるまい。当時,しばしば流言されたバタイユの「 エロティシズムとは死にまで至る生の称揚」のたとえ(瞬間の距離)だろうくらいは思ったものの,事はもう少し複層的だったのだと感じた。

トークライブの後半,P-MODELのテーマが「コミュニケーション」であったことから,平沢にとってのコミュニケーションとはという問いに対し,保証された場での距離感との答え。ユングの「集合的無意識」は胡散臭いけれど,「保障された場」とすると,かなりわかりやすい。

それがあったうえでの距離感の持ち方,とり方。それがないときの距離感の持ち方,とり方。(つづきます)

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