距離

場というのは,その場より上位の場の“部分”を構成するとともに,その場より下位の場によって構成されるという関係にある。

その場は,下位から見ると“全体”であり,上位から見ると部分である。

その場は,それぞれ亜全体として“自律性(自由度)”を備えた統合構造であるが,上位の場の部分として“隷属”している。

(悪名高き)アーサー・ケストラーが提唱する「ホロン」について,今世紀のはじめにこう解説してもらったことがある。キーワードは「それぞれの場における自律度(自由度)」で,これなしに全体性のみで「ホロン」を説明すると妙なことになる。

平沢進はソロになってからニューエイジ系のタームを意図的に用いた,とインタビューでしばしば語っているが,その萌芽は昭和50年代の終わりにある。たとえば,シルバマインドコントロールやユングの夢分析,その他,自己啓発セミナーとかなり近い根をもつ考え方などなど。

ゲンロンカフェでめずらしく心情を吐露していて面白かったのは,自己啓発(洗脳)理論やユングの精神分析における解釈・夢分析などを,タッチとして取り入れたところ,(シルバマインドコントロールは「アナザーゲーム」で,ユング・夢分析は「SCUBA」~「ONE PATTERN」まででさまざまなタッチをつくることに寄与している。というか,用いてタッチをつくっている),自分がそれらの手法を使うと,リスナーは容易く絡め取られてしまう。それが怖かったというのだ。簡単にいってしまうと,予想していたよりも遥かに低い自律性で場がコントロールされてしまう,ということだ。それを「距離感の違い」と言ってしまってよいかもしれない。

一連のポストのなかで,凍結前P-MODELのライブで,バンドがコントロールしたかったようにはコントロールできなくなった観客,というニュアンスのことを書いた。P-MODELがコントロールしたかった「場」とは,もともと場なりの自律性を伴ったものだったのだろうと,あの平沢の話を聞きながら感じた。フロアからはもっと,ドラスティックなマスのコントロールへの欲望と映ったときもあったけれど,その果てを想像すれば,あまり意味のないことだと容易くわかったはずだ。

で,斎藤環が接近しているオープンダイアローグと平沢の世界観の何が近いかというと,このケストラー由来の「場の自律性」,ただし斎藤の場合,というかオープンダイアローグの場合,それは「前提」であるのに対し,平沢はあくまでも「希求」のようなスタンスだろう。(もう少しつづくはず)

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