1991

この前会ったときに,弟がミラノに向かったのは1991年の5月だと確認し,以前,記憶をたよりにまとめた当時の流れが補強された。読み返していないので,実際,どのように書いたかわからないが,こんな感じだったはず。

平成に入ってからを整理すると,1989年1月から1991年の春先まで,ということは平沢ソロ初期3枚のリリースの時期までは実家から職場に通っていたことになる。DMは実家に届いていたのか。週末は伸浩の車で多摩から富山,岐阜,群馬,宮城まで出かけていた。宮崎事件でレンタルビデオ店の情報開示に怒り,一方で,昭和60年代に地続きのライブに出かける。昌己が1年弱,高円寺に住んでいたのもこの頃だ。

1991年5月,弟が住んでいたアパートに引っ越す。会社まで自転車で出かけられる距離になった。出かける範囲が新井薬師から中野,高円寺,吉祥寺,国分寺に移る。スタジオに入り始め,すずらん通りで中古ギターを買い,昌己のドラムマシン,MTRをつなげ遊び始める。徹がQY10を手に入れた。スタジオにもってきたものの,QY10を鳴らすと,どうしたわけか曲の骨格がフュージョンっぽく聞こえてしまう。つくりかたなのだろうけれど。私がもっとも抵抗して,QY10でつくった曲は結局,固まらなかった。

和之が結婚するというので,4人だったメンバーが3人になり,徹が顔を出す回数も減ってきた。昌己と私で週末,スタジオに入るようになったのは,1992年くらいからだろうか。

P-MODELの解凍を日比谷野音で見て,1992年あたりにKORG T3を中古で買ってから,曲の感じがまた変わった。

1991年はレコメン系(よく言えば)で,それでも理想にしていたのは,曲Aと曲Bを同時に流して,スイッチングでA,Bが変わるのを生楽器でやるという,まあ,ジョン・ゾーンのやり口をまねたかったのだけれど,変わるところの頭がどうしてもフレーズの初めになってしまう。楽譜があるわけじゃないのでしかたないものの,スタジオの時計の秒針を見ながら音を出すという,妙な方向に向かっていた。いや,あれはあれで面白かった。飽きずに詰めていけば,たぶんアイディアを重ねる余地はあったはずなのだけれど,結局,飽きてしまうのだ。

1992年からT3のシーケンサと同期させて曲を作り始める。手本はP-MODELだったものの,ここでは平沢進ではなく,ことぶき光のやり口をまねることが多かった。旬はさておき。1993年の1月3日,裕一に呼ばれ,高知のキャラバンサライでライブ。スタジオに入りながら,後に出入り禁止になってしまう居酒屋で2時過ぎまで,次の一歩について昌己と話し合った。

目標なく,やりたい曲の方向性は見えず,1993年の夏前にスタジオに入らなくなる。その前の数か月,偶然,会った中学時代の友人をベースに迎え,数回,スタジオに入ったが,この時期は“テクニックのないぼくにもできるプログレ風”(いわゆるテクノナイプログレ)で,これも飽きずに続ければ形になりそうな感じだった。

でも,だいたい飽きてしまうのだ。

1993年夏,アパートを引き払い,実家に戻る。勤務先を変え,翌年の秋に家庭をもつことになる。

この間,P-MODELは改訂となり,その後,ライブで彼らの姿を見たことはない。21世紀になって,核P-MODELを見るまで,四半世紀の時間が経ってしまった。

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