1991

矢作俊彦の活動になぞらえて1991年から1993年までを思い出してみると,ちょっと様相は変わる。

1990年秋に刊行された『スズキさんの休息と遍歴 またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行』(新潮社)までの数年間,昭和60年代に入ってからこのあたりまで,矢作俊彦の執筆活動に中心が見えづらくなっていた。エッセイはさまざまな媒体で執筆するものの,小説としては,「スズキさん」の連載でそれまでのイメージを一新(当時は)したはよいものの,「すばる」(おもに)の連作「東京カウボーイ」は結局のところ何が書きたいのかよくわからなかった。 ようやく「東京カウボーイ」が面白く読めるようになったのはその後,『ららら科學の子』が出てからのことだ。

1991年は,『スズキさん』で第1回三島賞にノミネートされ,「絵が下手だ」という理由で受賞の逃した時期だ。前年の「神様のピンチヒッター」,翌年の「ザ・ギャンブラー」それぞれの映画監督として名を聞くことも多かった。とはいえ,昭和50年代後半の続きを追っているファンにとっては,新作とこれまでの活動がうまくつながらない,そんな時期だった。

『マイク・ハマーへ伝言』の一歩先がとにかく読みたかった。ただ,当の小説家自身が一歩先ととらえている方向と,昔を引きずる読者の方向が一致しない。何度か書いたように,1987年くらいから10年近くの間,つらつら思い出すだけでも,たとえば森雅裕,斎藤純,樋口有介,片岡義男のエッセイ,佐藤亜紀のエッセイ,そのあたりに本家の香りを無理やり嗅ごうと四苦八苦していた。矢作俊彦にとっても,名をあげられた小説家にとっても,それは迷惑以外何ものでもなかっただろう。

平成に入ってから数年間,「テレビぴあ」「ドリブ」「KIRA」,もちろん「NAVI」などで矢作俊彦の連載を見つけると,雑誌を買っては読んだ。「週刊ポスト」の連載は立ち読みするしかなかったなあ。ときどき暗記したくなる一節に遭遇することはあったけれど,全文暗記できない自分を情けなく思うほどの文章は,この時期,ほとんど書かれていない。もちろん,それは私にとって,だ。

昭和60年代から,文章を簡単に書き始めた矢作俊彦の,その簡単な文章を面白く読めるようになるのは,今世紀になってからの作品を通してだ。文庫本になるたびに改稿するものだから,『真夜中にもう一歩』は,単行本版よりも文庫本版のほうがはるかに文章は面白く,馴染んでいる。以前書いたように,連載版「真夜半にもう一歩」の文章が一番気に入っているとはいえ。

1991年から1993年を矢作俊彦の活動になぞらえて思い出すと,何とも微妙な当時の感覚が立ち上がってきてしかたない。

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