気分はもう戦争

1982年,書店に並んだA5判の『気分はもう戦争』は私のまわりでも話題になった。周回遅れで左翼にかぶれていた智は,数年前,「さらば宇宙戦艦ヤマト」に散々文句をつけたような嗜好(あくまでも趣味の問題だから)だったけれど,『気分はもう戦争』を絶賛した。シニカルさでは智をはるかに上回る芳弘も同じように絶賛し,熱く語った。

二人から別々に,当時の石森章太郎の凋落をしばしば指摘された。言い返せないのが情けなかった。石森が久しぶりに力の入ったカラー扉を描くと「フラゼッタのパクリじゃないか,あれ。それにくらべて,大友克洋のマンガのオリジナリティといったら」と容易く指摘される。翌年,泉昌之の『かっこいいスキヤキ』が出て,半年,一年で,とにかくマンガのメインストリームが更新されまくった。

繰り返しになるが,私たちがこぞって追っかけたのは「その先」で,レイドバックして「あの頃はすごかった」ではほとんど通用しない時期があったのだ。とはいえ,たとえば『ひとりぼっとのリン』やジョージ秋山,永井豪あたりが70年代前半に描いたマンガについては,当時からそれなりに語られてはいた。「冒険王」で桜多吾作のマジンガーシリーズをリアルタイムで読み,『グレンダイザー』後半の凄さを私は友人に語ったけれど,その凄さが共有されるまで10年以上時間が必要だった。

それにしても奴らはどうして揃いも揃って吉田拓郎のファンだったのだろう?

いつものように予備校の帰り,書店で智,芳弘と出くわしたときのこと。原作者というか――村上知彦が当時,述べたように,それは「矢作俊彦大友克洋」という長い名前をもったマンガ家の誕生であったのだけれど――文芸書の棚に並ぶ矢作俊彦の『死ぬには手頃な日』の朱色の背の鮮やかさが印象に残っている。

『気分はもう戦争』は借りて読み,本冊を手に入れたのは2年後のことだった。その頃には倉前盛通の『悪の論理』『新・悪の論理』を読むくらいには,このマンガにはまっていた。

湾岸戦争の頃,谷口ジローとの『サムライ・ノングラータ』を挟み,21世紀に入ると,雑誌「Title」で「気分はもう戦争2」のスタートがアナウンスされた。掲載誌は角川書店の「少年エース」だ。それも名目上は「連載」。難産だった本作をつくりだす経過については藤原カムイによる単行本『気分はもう戦争2.1』のあとがきで容易く想像できる。単行本化に際して書き込まれた背景を眺めながら,さぞ原作の仕上がりが遅かったのだろうと感じた。無印『気分はもう戦争』のように,連載ではなく,不定期掲載だったならば,「気分はもう戦争2」はもう少し違った展開になったかもしれない。

さらにその後,矢作俊彦のサイトで小説版「気分はもう戦争」がスタートし,無印の原稿がカラー版でしばらくアップされた。あれは大友克洋みずから着色したのだろうか? 映画化企画のアナウンスもあった。もちろん小説は数回で休止,映画はいまだ公開されていない。

で,火曜日の朝,コンビニで「漫画アクション」を見つけ,「気分はもう戦争3(だったかも知れない)」を読んだ。事前のアナウンス,当日の新聞を通しての広告,書店での展開,双葉社の腰の入れ具合はさまざまなところから感じられる。

1990年あたり,ギリギリ絵に魅力を感じられた頃の谷口ジローに少し似た絵ではあったものの,全体,『AKIRA』後半よりも遥かに大友克洋らしさが伝わってきた。1コマ1コマの構図は衰えていないし,コマとコマを繋ぐ時間の感覚,リズムもすばらしい。情報量が無茶苦茶多い短編なので,何度も読み返すことができる。というか,一度読んだだけでは何がどうなっているのか理解できない。それは作品として秀でている証しだろう。


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