記憶

ことの起こりは2月の青山だ。ゲンロンカフェで平沢進×斎藤環の対談を聴いていると,何十年振りかで「飲み込まれ不安」という単語を思い出した。もともとユング心理学の文脈で展開されていた,ある時期の平沢の活動は,にもかかわらずフロイトの精神分析で解釈するとわかりやすくなるのが面白い。もちろん,ユングももとをただせばフロイトの弟子だから大枠では共通の範疇にある。とはいえ,戦後,変化していった精神分析で,それぞれの作業仮説はかなり異なっていった。

フロイトそれ自体よりも,「飲み込まれ不安」「モラトリアム人間」などなど,1980年前後,小此木啓吾が書いた一般書に登場するキーワードだ。

小此木啓吾は医師,河合隼雄は心理学者で,かなり後期になるまで,小此木は医師であるにもかかわらず,医学部での講座はもっていなかったように思う(まちがっているかもしれないが)。医師である小此木が師事したフロイトは治療者としては二流(と,対談のなかで斎藤も語っていた)で,心理学者である河合が師事したユングは治療者としてはフロイトよりもはるかにすぐれていたことは興味深い。まあ,そんなものなんだろうけれど。

ゲンロンカフェが終わり,ネットで小此木啓吾について検索してみると,平沢どころか,近年,社会学者が担わされている社会的役割は,1980年代前後,心理学者・精神分析医が担っていたことを思い出した。古さをあまり感じず,もしかすると今,読み返すと,小此木啓吾はうけるんじゃないか。昌己にそんなメールを打った。

「小此木啓吾の再来って田中角栄ブームみたいな感じだな。 ACが流行ってた頃に斎藤学が小此木啓吾の自宅に話を聞きに行くっていうNHKスペシャルを観たことを思い出した」と,実に的確に突っ込まれた。

この前,ブックオフに『モラトリアム人間の時代』(中公文庫)が並んでいたので買ってみた。学生の頃に読んだ文庫はすでに手元にはない。表紙が面白いセンスだなと思い,カバーの折り返しをみると宇佐美圭司の仕事だった。

で,ペラペラと捲っていたところ,「半人前(コトナ)」という表現が飛び込んできた。

コトナって,われわれが思いついた言葉だった記憶しかない。30数年前に友人たちと交わした「『オトモ』じゃ語呂が悪いし」というやりとりも覚えている。けれど,まさか記憶をすり替えられたわけじゃないし。確かに,コトナを思いついた(と思っていた)時点で,すでに小此木の文庫本を読んでいたのも事実だ。

それにしても「半人前(コトナ)」という字面には,おそろしくさびしい佇まいを感じる。「半人前」のひとことですまされて,まあ,確かにそうなのだけれど。もう少し,含意があっても悪くないと思う。

というわけで,一連のポストの2回目に記したことは,記憶のうえではまったくそのとおりではあるものの,結果として,小此木啓吾の造語(だと思う)を援用したものだ,と改めなければならない。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Top