ネタ

タテマエとホンネ,やらせなどなど,それらが起こり得る場から,とりあえず降りる。堀田がいったように,その場で,空気を読まずに居続けることは残念ながらできなかったので,結局,そんなふうにして昭和の終わりから平成が過ぎた気がする。

矢作俊彦の『マイク・ハマーへ伝言』のなかで雅史は“傍観者の居心地のよさのなかにいた自分が本気になるなんて”と一人ごちる。そう書いた矢作自身,一時流行した“ウォッチャー”という言葉を毛嫌いする。曰く「あ奴ら闘っていないじゃないか」と。

さすがにウォッチャーと称することはなかったものの,闘わずに場を降りる習癖を省みることはほとんどなかった。レイ・デイヴィスだってそうだったに違いない。

降りた場に起きているものごとを拾ってはネタにする。これは徹がよくやっていたことだけれど,だれかれとなく,時には先輩に向かってさえも話の途中で「やっぱり新人類は違うなあ」と言い放つ。ネタだ。新人類がどうしたとかいう場から降り,ただ,新人類という言葉が発せられる場で起きているものごとを拾うから,こういうネタになる。

自己啓発セミナーに誘われたときでさえ,その場に同調せず,なんでこんな不幸自慢を聞かされ続けなきゃいけないんだとしか思えない。その場にふさわしい言葉が出るはずもない。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の世界だったら,エンパシーボックスに反応しないととらえられかねない。

結局のところ,動員されないないよう,洗脳されないよう,ゾーニングしていたのだろうか。ゾーニングしておいて,そこからネタを拾うのだから,たちはよくない。

そうしたもろもろと距離をとることができたのは,いろんなことが幸いしたからだったのだろう。ここ数年,堀田が言ったように,期待される一言を発しないにもかかわらず,その場には居続けなければしょうがないなあと思うことばかりだ。

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