9月1日

……大杉を連行した九月十六日のことだ。
(中略)
 「さっきも言ってたが,世情はそんなに不穏かね」と,大杉が尋ねた。
 「震災火災の地獄図に乗じて,国家転覆を図る者など本当にいるのかい? そちら様と同じだけ,こちら様もどちら様も,親兄弟,仲間を失い,今日の飯どころか飲み水にも不自由してもう半月になる。朝鮮人,支那人言うに及ばず,いったいどこの誰が非道をしたんだ? 自警団と町方の警察が,火事場泥棒みたいな真似をして歩いているだけじゃあないか。世情不穏はこちら様じゃねえ,そちら様が好んでこしらえているんだろう」
 「誰も帝都復興と人心安寧のために,不眠不休で汗をかいているのです。自分は今し方,遠い地方の憲兵隊から応援に出向いた者らに休めを命じてきました。それらは今まで五日四晩風呂もつかわず働いていたのです。予防検束というのは,諸兄らのためでもある。鮮人,支那人が,よからぬ連中の手にかかわらないよう,身を守るためでもあるのです」
 「ものは言いよう,手は使いよう。地震の被害も考えようだね」
 「なんと言われようと」
 「軍隊も同じさ。手足がものを言ったら,誰でも辟易する。日露戦を戦った軍と今の軍は違う。世界大戦ですべてが変化したんだ。軍が変われば戦争だって変わる。いや,こいつは逆かもしれない。どっちにしろ今の戦争は,もうハンニバルやらボナパルトやらの時代とは違うんだ。だから勝っても負けても,こうして不景気がくる」
 長い灰の固まりが,葉巻の先から落ちて机で音をたてた。大杉は目もくれず,身を乗り出した。
 「どなた様も長い間――下手をすりゃあ会津,函館戦争からずっとのこと,戦後を生きていると思ってる。ぼくはどんなときでも戦前だと思って生きている」
 「そんなことは,軍人には当然の生き方です。軍人は,どんな時代でも戦前を生きているのです。今,東京の混乱が長引けば,ロシアが樺太,満州に兵を進めるかもしれません。仰る通り,軍隊は時々刻々と変化するものです。未曾有の事態の下にあっては,内に潜む敵をも注視しなければならない。国家転覆,治乱紊乱を図る者たちとの戦いも予期しなければなりません。軍は,常に身構えを解いてはならないのです」
 「その軍隊とは何の軍隊だ」
 「もちろん。天皇陛下の」
 「そんなものは福沢諭吉あたりがこしらえた手品の種にすぎねえぞ。殿様の軍隊を日本国の軍隊にするためにさ。殿様より偉い指揮官は天皇様しかいないからな」

矢作俊彦「百愁のキャプテン」連載第16回,論座,2002年10月号,p.302-303.

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