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テープ起こしの合間に,細かな仕事を片づける。20時前に終えて,会社を出ると意外と寒くなっている。

『サーカスがやってくる』を読み終え,伊野尾書店で買った岩波のブックレットを捲る。高田馬場で外に出て,少し休憩。ブックオフに寄り,渚十吾の本と草野唯雄の文庫2冊を購入。渚十吾というと,数号で潰れる雑誌にはだいたいページをもっている人,という認識しかない。雑誌が悪いのだろうけれど,その手の雑誌と相性がよい書き手といえばよいのか。雑誌「LOO」は休刊まですべて買ったはずだ。ピックアップされる写真はよいのに,本文が薄いという印象で,手持ちのものは最初の頃のみちくさ市で売り払ってしまった。島田一男の文庫が三冊並んでいたものの,すでに手に入れたもののように思われ,買うのはとどまる。家に戻り,夕飯をとって,Macのデータを少し整理した。確認したところ,島田一男の文庫,三冊のうち二冊は持っているものだった。

1970年代,80年代に刊行された本を買うと,その読みやすさに驚くことがある。読みやすさとはこの場合,本文の行間が開いているとか,文字の級数の大きさとかではなく,ざらついた本文用紙や,射程に置いているであろう期間(わかりづらいので,ロバート・フリップの言葉を借りると「軋み指数」)がとても長く感じられることに由来する。

平成中期以降に刊行された本は,時間をおいて手にとったときに,読みづらい。「読みづらい」とは,内容以前の問題で再読する気が起きないという程度の意味だ。それはたぶん,DTPの興隆,過程での選択肢の広がり,効率的な編集・印刷作業などが影響しているに違いないと断定したうえで論をすすめてみよう。このつづきはいつか書くことにして。

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