S50

昭和51年くらいを分岐点に,FMラジオを聴く時間が長くなった。ステレオセットを手に入れたことがきっかけだったはずだ。この頃の記憶は思い返すと苦い薬を口に含んだように感じる。というのも,家庭をもち,日々のくらしにかかるあれこれがリアルになるにつれ,あのときに両親がどのような判断をしたのかを考えてしまい,その判断がボディブローのようにきいてくるからだ。

FMラジオを聴くと番組表が掲載された雑誌を手に入れたくなる。そうしたメディアを通して私の世代では,音楽と馴染みになっていった。

宇宙戦艦ヤマトへの熱狂は5年ももたなかった。十分飯の種になると感づいたあれやこれやが,あからさまに飯の種のためにもう一歩どころか三歩四歩を踏み出すと,たとえ稚拙な判断をくりかえしていても,あざとさと,熱量の乏しさは感じる。

昭和53年くらいまでに,その後数年を乗り切る準備は整ったに違いない。昭和54年からの数年はほとんどジェットコースターだ。昭和57年に波のてっぺんにたどりつくと,その後の数年,ふたたび飯の種の波が襲いかかった。その余波ともろもろの敷居の低さがセットになった昭和64年までの5年間,ジェットコースターは動き続けていたのだろうな,と今は感じるのだ。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Top