文春

週明けになったからといって,忙しい状況がとくに変わるわけではない。水曜日は21時半過ぎまで中野の大学で打ち合わせ。帰りにYAMIYAMIに入り,カレーをビールで流し込む。ブックオフで三島由紀夫の『金閣寺』を購入して,家に着いたのは23時。22時過ぎに新井薬師前を歩いていると,「おまえは30年後も,このあたりを歩いているのだと」と平成の初めの自分に伝えたくなってくるのは毎度のことだ。

高校で同じクラスになった芳弘は,その後,20代のなかばまでの10年ほど,一番の友人だった。1970年代後半に筒井康隆のファンだった彼が趣味で書くものにはその影響は色濃く現れていた。と,気づいたのは筒井康隆の本を読み始めてからのことだ。中学生時代,何冊かのジュブナイルを読んだだけで,私は筒井康隆の小説を手にしたことはなかった。

最初に読むならどのあたりがいいだろう,芳弘に聞いたことがある。このエントリーを書き始めるまで,私の記憶では「文春文庫がいいんじゃないか」と言われたことになっていた。それで『俗物図鑑』を借りて読んだのだ,という流れだった。ところが,Webで確かめてみると『俗物図鑑』は新潮社から刊行されていて,文藝春秋から出ていたのは『大いなる助走』だった。ただ,これが文庫になったのは1982年だという。なんだか記憶と齟齬がある。

で,そのことを枕にしながら,文藝春秋の本は,2000年くらいになるまでほとんど買うことがなかったという話をまとめようかと思ったのだ。とりあえず記憶のままですすめると……

たぶん,それが初めて読んだ文春文庫だった。文春文庫に収載されている北杜夫の小説は『怪盗ジバコ』だけで,あとは遠藤周作などとの対談集ばかり,江戸川乱歩も平井和正もリストに入っていない。当時,文庫で読む小説家はそのあたりだったからしかたない。

数年後の夏休み。古本屋で文庫を買っては一日一冊読むというばかげたことをしていたとき,伊丹十三の文庫を何冊か買った。すべて文春文庫だった。当時,古本屋で手にする文春文庫は紙質が悪くて,まるでわら半紙でできた文庫のようだった。中公文庫あたりと比べると明らかに軽く(もちろん重量だ),カバーにグロスPPはかかっていない。当時の文庫は集英社文庫以外,だいたいPPがかかっていなかったけれど,なんだか手にすることが憚られる代物だった。

同じ頃,「ダ・カーポ」か「本の雑誌」あたりで,テリ・ホワイトの『真夜中の相棒』が絶賛されているのを読んだ。テリ・ホワイトの翻訳は文春文庫が独占していて,数冊続けて読んだのが,昭和の終わりから平成の初めにかけてのことだったはずだ。

21世紀に入り,星野博美の本が文春文庫に収載されはじめた頃から,少しずつ書棚に文春文庫が増え始めた。矢作俊彦の『ららら科學の子』『夏のエンジン』『悲劇週間』が収載されるに至って,文春文庫のネガティブな意味での癖は失せた。

で,先日,文春文庫におさめられた伊丹十三の作品を均一棚で見つけ,三冊購入した。『女たちよ!』を読み始めて,固有名詞がまったく軋んでいないことに驚いた。読み終えていないものの,この本で私はパスタとオムレツの作り方,食べ方を学んだはずだ。

芳弘と最後に会ったのは,20代の後半のことだ。青山ブックセンターで待ち合わせ,立ち話をした記憶がある。当時,彼は制作会社でアシスタントディレクターをしていた。テレビ朝日の平日夕方のニュース番組を担当しており,仕事の合間のことだったはずだ。少し前,神保町で五月書房版『辻潤全集』を買ったときのレシートを渡した。彼はそれを確定申告に使いたいようで,用事があったのかなかったのか電話をしていたときに,「レシートあったらくれないか」という話になった。しみったれているなあと思ったのだろう。言わなくてよいものを,私は六本木までの交通費云々とゴネた気がする。

彼がどんなふうにして生計をたてているかにまで,想像が及ばなかったのだ。変わらず,高校時代のままの感覚で話をしていたところに,いきなり辛気臭い話がでてきたので,いやになった。その後,何回かやりとりしたはずなのに,記憶はすっかり飛んでしまった。

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