Help

昼ごろまでかすかに雨が降っていたけれど,その後止んだ。ただ,すっきりしない天気だ。

19時くらいまで仕事。高田馬場で少し休憩し,ブックオフで数冊購入。家で夕飯をとる。22時過ぎにお世話になっている先生から電話があり,しばらく打ち合わせ。年末は慌ただしい。

木皿泉の脚本によるテレビドラマ「Q10」第1回は,声を出して「助けて」と呼ぶことがテーマだったはず。「助けて」はこのドラマに通底するライトモチーフの1つで,「助けて」と声に出して頼めない現代社会に向けた,それは原作者からのメッセージだったのだろう。

ビジーフォーのネタの1つに,洋楽のヒット曲の歌詞を和訳して演奏するというものがあった。The Beatlesの“Help”はだから「助けてー」となり,その歌詞から始まる。

「Q10」よろしくしかし,助けてと声をあげることはなかなか容易でない。とくに近年のわが国では。助けることだって容易ではない。何をどうやって助ければよいというのだろう。助ける以前,相談に乗ることだって一苦労だ。何度か書いた気がするけれど,竹内敏晴さんが,ある日,大学の特別講義のため,学校近くのバス停に降り立ったときのこと。停まったそのバスに乗らず,バス停近くにたたずむ老婆がいた。すれ違ったものの,様子が気になる。数歩行って引き返した。

「どうかなさったのですか」と声をかけた。老婆から返答はないが,何か言いたそうな雰囲気は伝わってきたそうだ。竹内さんは「相談に乗るのはやぶさかではないけれど,これから私には用事があって,十分に相談に乗る時間がとれない。何かあるようならば連絡してください」と,自宅の連絡先をメモして渡し,講義に向かった。

その後,老婆から連絡はなかった。そのときのことを振り返って,竹内さんは「他者の相談に乗ることは,こちらに十分な時間と心構えがなければできない」とおっしゃった。瞬時に他者の身になるという表現がときどきあるけれど,そう容易くできるものではないのだろう。私以外の他人の身になり替わるなんて。

原田正純さんは,水俣病を見てしまった(見た)者が負うべき責任という趣旨の発言をしばしばされた。見た者が負うべき責任は,ところが「助けて」と声を発するのと等しく容易ではないように感じる。つまり「助けて」と聞いた者がみずから負うべき責任だ。

梯子がはずされ,いいわけばかりが闊歩する。それはまるでパレードだ。

で,何かまとめなければと思っていたところ,似たことを2年まえに書いていたと,そちらを思い出した。ここ

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