12/24

寒くなる。調子がすぐれず1時間少し,遅れて出社。

夜は家内,娘と茗荷谷のルピラートで待ち合わせ。ここ数年,年1,2回入る。夫婦2人で切り盛りするフレンチレストラン。席数がそこそこあるので,混んでいるときはかなりゆっくりしたペースでコース料理を味わうことになるものの,さらっとした味付けで素材のおいしさを引き出す品々が気に入っている。確認したら,去年もこの時期に,この店で夕飯をとったようだ。

19時前に入るとすでに満席で,2時間ほどにはなりそうだ。娘が先にやってきて,家内は仕事が終わっていないとLINEが入る。到着は20時過ぎくらいになるようだ。朝の調子があったのでビールを飲みながら,前菜2皿を食べ終わる頃,家内がやってきた。

デザートまで済み,21時過ぎに店を出た。地下鉄はおそろしい混み具合で,家に着いたらすっかり疲れてしまった。23時過ぎに布団に入り,本を読みながら0時くらいに就寝。

この前,吉祥寺のブックオフで買った島田一男の『湯煙に消ゆ』(廣済堂文庫)を読み進めている。1960~1970年前後,10年をかけて発表された短編が収められていて,これが島田一男らしくない。全体,やけに落ち着いた文体で揃えていて,結城昌治のような雰囲気がする。当時,こうした短編が流行ったのかもしれないが,それにしても島田一男の小説の知らなかった一面で,にもかかわらず,とってつけたような文体ではない。

ただ,結城昌治や三好徹と共通して,登場する女性,被害者の女性がだいたい水商売をしている。こればかりは,21世紀に読むと軋みが非道い。本書におさめられた短編が書かれて数年後,中編「リンゴゥ・キッドの休日」で矢作俊彦は同じく被害者として水商売の女性を描くのだけれど,水商売の女性を卑下するものとして描いていない。クラスは上下関係ではなく,あくまでもフラットなのだ。だから,矢作俊彦が哀しさを描いたとしても,そこに憐憫はない。

結城昌治や三好徹に比べると鼻につかないとはいえ,島田一男が描く水商売の女性には,まだ憐憫が感じられる。ならば初手から登場させなければよいものを。車上スリの女親分あたりの自立したイメージのほうが読んでいて面白い。

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